オ〇カード、死す

私のデッキでもっとも利用頻度の高いカードが効果をすべて失った。

つまり失効したのだ。それも2枚。

1枚は年に一度の手数料はかかるものの、ポイントが2倍になるとほいほい申し込んだプレミアムカード。金色に光るそのカードを手にするには、どう考えても私の収入から考えれば分不相応なのだが、カード会社は申し込みの案内を送ってきた。なぜだ。

カード会社の事情は知らないが、とにかく発行数と手数料を上げることが会社のためだったのだろう。おそらくは。

そうでなければ月収12万円の人間に金色のプレミアムカードなんて持たせるはずはない。しっかりしてくれ。私は月収12万円の女だぞ。

 

しかし数年は支払いが滞ることなく、利用した分は毎月しっかり支払っていた。

なぜならばカードローンで金を借りていたからだ。

銀行とオ〇コから借りて返済する。自転車操業に見えて回ってはいない。かさむ借金。狭まる限度額。そしてとうとう限界がきた。

2ヶ月の支払いが滞ったところで、東京の市外局番からの着信があった。

私は小狡い人間なので、オ〇コのフリーダイヤルからの着信には、営業時間外になってからかけ直し、シカトするつもりはないことをアピールしていた。

電話に出られないのは平日仕事で、そちらの営業時間内にはかけ直すことができない。決して踏み倒すつもりはないのだと。応対する気持ちはあると。

だが時間内にかけ直すチャンスはあったのだ。それも平日に一日だけ休みはあるので、その日にかかってきた電話に出ることも可能だった。しかしオペレーターのお姉さんと話したところで払える金が湧いてくるわけではない。話すだけ無駄だ。金ができたら送られてきた払込用紙で支払ってるじゃないか。

そうして私は見知らぬ東京からの市外局番の電話に、いつものように18時にかけなおした。どうせまた音声案内だとたかを括って。

 

しかし受話口から聞こえてきたのは肉声だった。女性の声。オペレーターのお姉さんだった。

もう私はこの「お電話ありがとうございます」の第一声で腹を括った。

ずっと会話を避け続けてきたオ○コのお姉さんと決着をつけねばならないと思った。

払込票に印字された金額が手に入ったら、コンビニで支払う。もうその手は通用しない段階まできていたのだ。なぜならこの時点で私は一枚のカードの支払いを二ヶ月分を滞納していた。

なぜ今までのルーティーンで支払えなかったかは、給付金に浮かれて買ったエアコンの代金、18万円の手数料をケチり、二回払いにしてしまったからだ。一度の請求の総額は光熱費やネット回線代なども含めて10万円は超えていた。

そんなまとまった金額、そうそう手元に降ってくるはずもない。こうしてオ○コのお姉さんは痺れを切らし、営業終了時間である17:30を過ぎても繋がる番号から攻撃を仕掛けてきた。

いや滞納されている時点でダメージをくらっているのはカード会社の方なので、反撃に出た、と言う方が正しいだろう。

そんな言葉遊びはどうでもよくて、オ○コのお姉さんの反撃は、クレカの滞納分とカードローンの残高をまとめて、金利6%で分割しないか?という提案だった。

もちろん審査はあるが、翌日メールで送られてきた申し込み書に毎月いくらなら支払えるかを自分で記入し、申し込む。

これはおそらく「おめーがこれなら払えるって額をてめぇで提示したんだからな??」ということだろう。恩赦のようであり、自分で決断したという責任を強く意識させるための儀式にも思えた。

いやまあ、金を借りたのも使ったのも自分の意思ではあるが、そこからさらに「金を借りている」という意識を認識させるためもあるし、カード会社だって慈善事業ではないので、なんとしても金を回収したい。

つまりこれは、行き詰まった双方が交わした最後の契約だ。

もしこれを私が破棄した時、つまりは自分で設定した毎月の支払額すら払えなくなった場合は、その先もまたあるわけだ。なのでこれが最後だとは言えないが、オ○コのお姉さんとの最後の契約にしたい。この支払いすら滞ってしまったら、ついぞ父親に連絡がいくことになっている。それは今の状況よりもめんどうだ。

 

そうしてオ○コとの最後の(と思いたい)契を交わし、二枚のカードから一瞬にして命が消えた。

「お手元のカードはお客様自身でハサミを入れて破棄してください」

できない。

これまで苦楽を共にしてきたオ○コカードたち、たとえそれがただの長方形のプラスチックに成り下がってしまったとしても、私には彼ら(彼女ら)にハサミを入れ、真っ二つにすることなんてできない。

・・・と思いつつもこのブログにハサミを入れたカードの写真でもあげとくか、なんてエンタメ性を意識しながらカードを探したが、ない。

おそらくカード失効と二度とオ○コでは契約ができないショックのあまり、即座にハサミを入れて捨てたのだ。その記憶すらない。

たしかに持ってても息を吹き返すことのないカードを手元に置いておく意味はない。だがあまりにもあっさりすぎないか過去の私。クレカが失効したなんて人生でなかなか経験できないイベントを、もうちょっと味わう気はなかったのか。断髪式ならぬ断裁式を行ってみようとか思わなかったのか。

できればこのブログを書いているまさに今、ハサミを入れて、ビフォーアフターの写真をアップするとか。

そういった余興を楽しむ余裕もなかった二週間前の私。いつのまにか財布からゴミ箱に失墜したカード。

これから始まる長い返済期間。空は秋晴れだ。嘘のように青い。私がいくら部屋で放心していようが、時間は無遠慮に流れていくし、借りた金は返しきるまで毎月私の口座をノックする。

 

そんな時、以前からフォローしていたアカウントの動画を思い出した。


【賭博狂の詩】第一話 借金総額【借金残高¥5,356,896】

 

現在、第十六話まで公開されているが、投稿ごとに借金の総額が減っているのがタイトルで明確になっている。

こうして数字で可視化されていると「あ、借金って減るんだ」と気づかされたのだ。

まじめに返済を続けていれば至極まっとうな話なのだが、今の私の数年かけてゼロになる途方もなく思えた返済額が徐々に減っていくことが想像できた。つまりは減るのだ。借金は減る。

じゃあ減らすための算段をしようじゃないか。

私の中で戦略会議が開かれた。

敵は借りた金と利子。それを少しずつ減らしていくための生活費の見直し。

元々ギャンブルや買い物依存でできた借金ではなく、「ふつうの生活」を送るために嵩んだ借金だ。給料に見合った極貧生活を送っていればこうはならなかったのだろうが、私だって美容院には年に三回は行きたいし、友達とごはんを食べたり、子供と外食にいったりもしたい。ちなみにシングルマザーなのだ。

もちろん国からの福祉は受けている。だがそれでは一般的な子供を持つ家庭の収入には到底届かない。もし私が高収入であれば、手当は受けられない。たしか満額もらえるのは世帯の月収が八万円程度だと聞いたことがある。その満額も今だと月に四万五千円だったと思う。なので私は満額受給者ではない。

そして手当の額は世帯年収によって決まるため、親と同居していればほぼもらえないだろう。親が年金受給者ですでに定年退職してたらどうかしらんが、そのへんはたぶんこんなブログよりもっと他のものを頼ってくれ。

 

話を戻すが、このギャンブルで借金500万円を作った「犬さん」の動画やTwitterによって、私は親しい友人にすら話せていない借金あるあるに共感することができている。

借金を減らそうとしている人が私以外にもいることは想像できるが、想像と実際にその額が減っていく様を見る機会はそうそうないだろう。

それによって私も生活の立て直しに奮い立った。

いや、そもそももっと早くにそうしていればカードを失効することにもならなかったんだろうが、それをとやかくいったところで借金は減らない。

 

私は人生は空港などにある、歩く歩道だと思っている。

私が立ち止まろうと、人生が嫌になって暴れようと、歩道は進んでいく。この歩道は時間であり世の中だ。

私が放心しようが嘆こうが、時間は進んでいく。だったらそれに歩調を合わせるしかない。やれることをやるしかもう道はない。足掻くしか選択肢がないなら、ない頭を振り絞るしかない。

私は勝手に「犬さん」に手を引かれたような気になった。本人とはまったく面識もなく向こうも私を認知しているわけではないので、ただうしろを追っているストーキングに近い行為かもしれないが、この方の借金がゼロになるまで見届けたいと思った。

そのためには私も数メートルうしろを歩いていくしかない。

 

いつかここに完済報告ができる日がくればいいなと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おけけパワー中島はサンバを踊る

出遅れた感はあるが一瞬にしてネット内での話題をかっさらった「おけけパワー中島」(以下 おパ島)について私にも語らせてほしい。

 

出自は某氏がTwitterピクシブに投稿した同人女のリアルな様子を描いた漫画だ。

https://twitter.com/sanada_jp/status/1269465337675698176exit

 

このブログにたどり着いた人ならもう「おパ島」が何者かをわかっていると思うので割愛する。

 

ここからは私が実際に自ジャンルで遭遇したことのある「おパ島」の話だ。

 

私は今のジャンルに約二年ほどハマっている。

そもそものきっかけは原作漫画が期間限定で無料公開されたからだ。そして同じ時期に私と同じような理由でジャンル内の人口が一気に増加した。

おパ島もそのひとりだった。

 

そもそもなぜ私が彼女のことを「おパ島」だ!と思ったかと言うと、彼女には次のような特徴があったからだ。

 

・本人も言っていたが「鉄は熱いうちに打て」という、熱を上げたら冷めないうちに創作する。つまり勢いがある。猪突猛進型だ。

・とにかく明るい。

・気軽にジャンル内の大手に絡んでいく。

・おけけパワー中島という下品だがインパクトの強いネタに関してのセンスはある。

・活発的で多趣味。

 

以上が私が自ジャンルで遭遇した「おパ島」だ。

上記した通り、彼女は原作?のおパ島のように、相手が神と称されるような作家だろうがなんだろうが、機が熟すまで距離をとるようなことはしない。気になった人には躊躇わずに話しかける。彼女にとって対話はまるで呼吸かと思えるほど、ナチュラルに絡んでいく。むしろこちらが見ていてヒヤヒヤしてしまうほどだ。

話しかけることを躊躇する理由に「迷惑じゃないだろうか」「嫌われたりしないだろうか」というような懸念が一切ない(ように見えた)

 

そしておパ島は底抜けに明るい。

もう毎日がサンバカーニバルだ。

1ツイートに1ブブゼラでも鳴らしているような具合だ。

とにかく思いついたことは無濾過でツイートしているように見えたが、ネガティブなことはほとんど呟かない。

もう毎日が楽しくて、楽しいことに忙しくて仕方がない様子だった。

そして、おパ島はもしや三人くらいいるんじゃね?と思ってしまうくらい多動だった。

仕事を掛け持ちしつつも週に二回、飲みに行き、その上新刊を二冊、三冊出していたのだ。CLAMP方式で複数人いると考えたほうが安心できるくらいに、私はおパ島が恐ろしくなった。

それ以前に呟くたびにブブゼラが聞こえてきそうなツイートを見るのも疲れていた。

だって毎日窓の外からサンバのリズムが聞こえてきたらさすがに「うるせぇ今何時だと思ってんだ!」と頭を抱えたくなる。そういった毎日毎日サンバなツイートを好意的に捉えていた人が多かったが、私は無理だった。ぶっちゃけ「あ、この人苦手だわ」と気づいた。見ている人を元気にするかゲッソリさせるかの、どちらかだろう。私はサンバカーニバルは年に一回でいいや、と思った。

 

さて私が彼女を「おパ島」のようだと思ったことにはもう一つの出来事がある。

おパ島はとにかく自分が楽しいと思えることに貪欲なように見えた。なので新しいコンテンツにも敏感だ。そしてすぐハマる。

いわゆるイナゴである。

そうしておパ島はジャンルを掛け持ちした。

都内オンリーに加え地方オンリーと二週間で三つのオンリーにサークル参加しようとしていた。もちろんそれぞれ新刊を携えて。

もう狂気だと思った。どうか最低でも二人いることにしてほしいと願った。単独による行動だと考えると、こっちの気が狂いそうになった。

 

異常な行動力と尽きない体力とアイディア。

それが私が自ジャンルで遭遇した「おパ島」だった。

臆することなど微塵も感じさせず、自分が良いと思った作家には躊躇の垣根を軽々と飛び越えて話しかけ、オフ会には積極的に参加するフットワークの軽さを持ち、下品なネタのセンスは抜群で、楽しそうなものへの好奇心が尽きない。考えるより行動する。おまえ明日にでも死ぬのか?と生き急いでいるようにも見えなくはなかった。

 

そうして界隈で大手作家との繋がりも築き上げ、新しいジャンルにも素早く飛びつき反復横跳び状態で活動していたおパ島だったが、新規参入したジャンルで事故を起こし消えた。

一瞬だった。

あれだけ毎日、毎ツイート、サンバを踊っていたおパ島だったが、事故を指摘されてから消えるまでは早かった。これも彼女の瞬発的な行動力の賜物だろうか。ちなみに事故処理対応の悪さにかなり批判的な声が上がっていた。手も早ければ足も早かった。

 

これが私が「おけけパワー中島」の存在を知った時に一瞬で脳裏に浮かんだ自ジャンルにいた「おパ島」だ。

作中のおパ島とは少し違っているかもしれないが、私は彼女のような人間を目の当たりにしたのが初めてだったので、多くの人が「おパ島」というネーミングがしっくりきたと言っているのを聞いて、こんな人が他にも多数観測されているのかと驚いた。

そしておパ島のサジェストで「ツイステ」が出てくることに妙に納得してしまったのも、私の知るおパ島もそうして旬ジャンルに飛びついていたからだ。

 

私の知る「おパ島」とみなさんの頭に浮かんだ「おパ島」は、もしかすると同一人物かもしれない。そしていつかあなたのジャンルにも現れるかもしれない。

TLでブブゼラが聞こえたら、それは私が遭遇した「おパ島」かもしれない。

 

腐女子のみんな〜交流してる〜?

これは昨年ラジオトーク「交流なんてそこまで必要ない」というタイトルで投稿したら、過去最高のリアクションを得たことから、もしかして腐女子同士の交流に疑問を抱いている人は少なくないのでは?と思ったことについて書く。

 

そもそも私が交流なんてそこまで必要ない。と思ったのは、同人アカウントを消してピクシブとHPのみで活動していたが、いざ即売会にでると本が売れた。という事実だ。

 

sukeki41111.hatenablog.com

 

 

前置きはさておき、本題は

同ジャンルや同カプが好きだからと言って、その人たちとの価値観まで同じなわけねーだろ

という話だ。

 

まず交流のメインになるのはTwitterだ。

Twitterは、思いついたことを手軽に書き込めるので、私は脳内アウトプットツールだと思っている。

だからその人が脊髄反射で感じたことや、人間性などがわりと如実に現れるツールであると感じている。

ツイートだけではなく、その人がRTしたツイートによっても、何に興味を抱き、どういう行いを嫌悪し、どういった考えに賛同しているのかもわかる。

人間性を測る上でこの上ない便利なツールと言えよう。

 

もちろんTwitter上でわかる人間性がその人のすべてではない。

実際に会って話してみた感じが、ツイートの文面から受け取れる印象とは違うこともある。

 

私は先日、数年Twitterで交流のあるフォロワーとオフ会をした。

そのフォロワー同士は相互でも知り合いでもない。共通点は私と相互フォロー関係にある。だけの、私によって集められた人達は皆、初対面である。

だが、やはり数年私とTwitter上で繋がっているだけのことはあって、私という人間性や価値観を否定しない、嫌悪しない、または共感できる人間。すなわちリテラシーの線引きがだいたい同じ人。が集まったのだから、話が合わないはずがない。

 

人間、嫌いなものが同じ人同士の方が関係が長続きする。という説があるが、これは嫌いな行動が同じ相手は、当然ながら嫌いな行動をしないわけで、だから嫌悪感を抱くことがない。

 

ここでめちゃくちゃ極端な例を出す。

箸の持ち方が正しくない人が苦手。な人たちは、正しい箸の持ち方をしているわけで、互いに食事を共にしても正しくない箸の持ち方をするわけがないのだ。

 

要は、好きなものを共有するよりも、嫌いなものを共有している方が人間関係はうまくいく。

さっきのたとえを逆転させてみよう。

箸の持ち方が気にならない人同士は、相手がどんな箸の持ち方をしていようが気にならない。だがそこに箸の持ち方が正しくない人を嫌う人がいたとしよう。たちまちそのグループの関係性はこじれる。

「なんでこの人たち、箸の持ち方がめちゃくちゃでも気にならないの?え、無理だわ」

となる。

そしておそらくこの箸の持ち方に嫌悪感を抱いた人は、同じ箸の持ち方が正しくない人間は嫌という人にその話を愚痴るだろう。

そうやって苦手なもの、嫌いなものを共通の敵と認識した人々の間には結束力が生まれる。

今、例のウイルスに対してや、それに伴う政府の方針をと認識した人たちの結束力は強い。そういったツイートには、多くの共感を数値化したいいねがついている。

 

腐女子とはだいぶ話がそれたが、同ジャンルや同カプが好きな人同士。それはそれで話が合うだろう。

だがほとんどの腐女子には、ジャンル移動の時期が訪れる。どんなにハマっているジャンルだろうと、季節の変わり目のようにアニメの新クールが始まった途端に、堰を切ったように新ジャンルの絵ばかりを投稿しだす。

そうやってジャンル移動をしても交流が続く場合は何か。

同じ価値観という繋がりがあるかどうかだと思う。

 

つまりジャンル内での交流は、たまたま移住した集落内においてのみ通用するのだ。

その集落を出て行った場合、遠距離になっても連絡を取り合える、または連絡を取り合いたいと思える人はどれくらいいるのだろうか。

そして狭い集落の中で孤立しまいと、必死に交流しようとする努力を私は否定しないが、それは集落の価値観に身を染める。つまり自分の意見よりも集落全体においての過半数を占める意見に賛同する。という、共産主義や宗教に近いものを感じる。

 

集落の村長、そのジャンル内でのいわゆる大手作家。が言ったこに対し、その考えに賛同できないような態度をとると、たちまちその集落から孤立してしまう、恐ろしい仕組みになっていることも理解してほしい。

映画『ミッドサマー』がいい例だと思うが、私はあらすじだけ聞いてミッドサマーを見てない。じゃあ例に出すなよって話だが、今これを書いてて、先日のオフ会で聞いたあらすじとよく似ているなと思ったのだ。

 

別に腐女子たちよ、無理して交流するな。

と言っているわけではない。

ただ、交流に苦痛を感じている腐女子がいるのなら、それはあなたのせいでもなんでもなく、ただそのジャンルにいる人たちとは気が合わなかった。だけなのだ。

 「絵や文章は好きだけど、この人の性格がちょっと・・・」

という場合は、潔くミュートすればいい。

イラストや文章は、ピクシブで閲覧すればいいし、Twitterのメディア欄だけ見るようにすればいい。

仲良くできないことは罪ではない。

仲良くしなければジャンル内で活動できないわけではない。

なぜ同人活動をしているのか。その根本が、作品を創りたい、見たい、読みたい。の人たちは、交流に重きを置く必要などないのだ。

同ジャンルの人たちと語り合いたいのがメインの人は別だし、そもそもそんな人はこのブログにたどり着いていないだろう。

 

今、誰とも交流してないけど、めちゃくちゃストレスフリーで同人活動をしている腐女子より。

中学校に通ってたことを未だに後悔している

中学を卒業してからもう四半世紀になろうというのに、未だに中学校に通っていたことを後悔する気持ちが噴射口から吹き出すことがある。

 

後悔する理由は無駄だったからだ。

何ひとつ得たものがない。

 

勉強にしたって、中学三年生の四月から塾に通い始め、半年後には偏差値が10も上がった。

まず学校の授業というシステムの中では、私は学力が身につかなかった。

 

そして友人関係に至っても、現在、中学の同級生とはひとりも連絡をとっていない。

さらに言えば、同じ学区内というだけで狭い世界に押し込められて集団を意識させられるこの仕組みが、自立心をへし折ったとまで考えている。

この狭い世界の中でうまくやり過ごさなければ、自分は弾かれてしまう。それは社会からの孤立であり、その先に続くレールから落っこちたも同然である。かのように思わせる、限界集落のような緊縛性。

 

そこで得られるものなど私にはなかった。

ただ辛い思い出だけが残り、私の人生において三年間の無駄が記録されただけだった。

 

とくに厄介なのが、中学までは義務教育にカテゴライズされているということ。

中学校へは国民として通学する義務があると植え付けられ、それに従うことになんの疑問も抱けない。疑問を抱くことを教えてくれるはずの大人でさえ疑問をもたない。

 

境界線からはみ出すことは、この先の人生においても「死」を意味する。だから自分の意思とは無関係に加入させられたこの狭い世界の中で、他人の顔色を窺いながらうまくやってみせろ。はみ出し者にはそれ相応の苦痛がおとずれる。

まったく、恐ろしい洗脳社会だ。

 

だから中学でも会社でも、小さな集団に馴染めないからといって、人生は終わるわけではない。

終わると思い込んでいる人間たちが、怯えを口にしているだけなのだ。

そこは世界ではなく、単なる小さな村だ。

自分で村をつくるのもいいし、拠点を複数もってもいい。

世界じゃない。ただの小さな村の中で、村民を演じている必要なんてないのだ。

 

魔女も受け入れてくれる魔女宅の世界に住みたい

昨日、何回目かの魔女宅を見て思った。

魔女すらも軽々と受け入れるあの街なら、私のような社会不適合者でも受け入れてもらえるのではないか。

 

「私、社会不適合者のインターネットおばけ!配達はできないけど、レジ打ちならできます!あと、電話対応も無理です!」

なんて言っても間借りさせて、電話も引いてくれて、朝食まで用意してくれるだろうか。

 

魔女なんてマイノリティどころか、言ってしまえば異種であり、異物と恐れられたりしてもおかしくはない存在なんだよ。

例えば日本で、キキがデッキブラシで空を飛んでトンボを救出したとして。その救出劇がテレビで報道されたとして。

その場では、少年の命が救われたのことに拍手喝采だろう。

けど、その後メディアによって「あの魔女の正体は?」だの、キキがトンボを救った事実よりも、キキが魔女であることにスポットを当て騒ぎ立てるだろう。

 

どんなに人助けという栄誉ある行動をとっても、キキが魔女という特殊な人種?の方に興味や奇異の目が向けられる。

別にキキが魔女だろうがなんだろうが、トンボを助けた。それでいいじゃないか。

実際あの街の住人は、トンボ救出劇のあとにはキキに好意的な態度を見せている。

つまりあの街では、デッキブラシで空を飛んで少年を助けた。

この事実だけで、自分たちとは違う能力を持っているキキを受け入れたのだ。彼女が魔女であろうと、格段騒ぎ立てることもなく、英雄として祀りあげることもしない。

 

この街に魔女がいたって、それはこの街にとって格段気にすることではない。

 

この街の住人は、多様性を認め合うなどという意識以前に、多様性という言葉すら知らないのかもしれない。

そもそも住人自体、人間という生き物自体が多様なのだという意識がある。

受け入れるかどうかは、種族や特徴によるものではなく、行いによるもの。そういった考え方が無意識下に根付いているのかもしれない。

 

宮崎駿監督が何を思って魔女の宅急便を作ったのかは汲み取ることができないが、視聴者のひとりである私には、そういった多様性という意識すら持たない文化の中で起きた物語。に映った。

 

性差、障害…あらゆる人間の特徴に関し、多様性を認め合うと言っている時点で、私たちは多様性を無意識に差別しているのではないか。

どんな人間か、よりも、どんな行動を起こしたか。にスポットを当てることで、人間の特徴に対する偏見も少なくなるような気がした。

自殺に興味がなくなったはなし

「死にたい」はもちろん、「最悪死ねばいい」などと、生きることに私は厭世的だった。

そもそも自分の命に執着がないのだ。

人間はいつか死ぬ。生まれた瞬間に「死」が確定しているのに、人はなぜ「死」を恐れているのかが不思議でならなかった。

 

最近ではコロナウイルスだ。

いつか「死」がおとずれることは覆しようのない自然現象なのに、それが鼻先にも掠らないうちから何をそんなに恐れ大騒ぎしているのか。とても不思議でならなかった。

 

そしてなりより、ぼんやりと今のままではこの国で生き永らえていくのはとても難しいと感じるようになった。

老後に2000万円必要だとか。福祉や就労問題だだったり。政治には関心がないけど、なんとなくこの先の人生には下り坂と地獄しかない。むしろ今も割と地獄だ。地獄の中をいつやってきてくれるかわからない命の終末まで下り続けなければいけないと思うと、人生を早めに切り上げたいと思うようになった。

 

なにより私は日常生活すらめんどくさい。

生きることは生活すること。そのために、やらなければならないことが多すぎる。

食事を摂り、その食器を洗い、風呂に入るために掃除し、それらを仕事をしながら毎日続けていかなければならない。

もしかして、生きるって、すごくコスパが悪いのでは?

そう思うと、とにかく人生を早く上がりたい。この人生ゲームのゴールマスに早く辿りつきたい。そのための手段に自殺があった。

 

インターネットで自殺の方法も調べた。

アマゾンで練炭やモクレナロープも欲しいものリストに入れた。

死にたいというより、人生をやめたかった。

 

そう思い続けてそろそろ実行に移そうか、などと考えていた時。

立て続けに自殺が未遂に終わった人のブログが、2件、目にとまった。

そこでもしかしたら自殺って、そんなに成功率が高くないのでは?と思い、自殺未遂者がどれくらいいるのかを調べた。

 

1年間で約53万人。(2016年)

https://business.nikkei.com/atcl/opinion/15/200475/092300070/

 

およそ53万人の人達が自殺に失敗しているのだ。53万人の死にたい人々は、死ねなかったのだ。

そして、厚生労働省の調べによると、同じ2016年の自殺者数は約21000人。

国の機関に把握されているだけでこの人数なので、実際はもう少し多いかもしれない。

単純に、未遂に終わった人達と実際に自殺で亡くなった人達を足して「自殺を試みた人達」とすると、55万1千人。

その中で希望どおり自殺に成功した人の割合は3.9%だ。

1割にも満たない。

55万人もの死にたい人達の中で、実際に死ねた人は約4%しかいないのだ。

25回に1回の割合になるのか。数学どころか算数もあやふやなのでよくわからないが、それだけ自殺はハードルが高い。

実際に亡くなった方達がどんな方法で自殺を試みたのかまではわからないが、私が読んだ自殺未遂者のブログは、首吊りとODだった。

首を吊っても死なないのか、人間。

 

周りで自殺で亡くなった人間を数人知っているが、亡くなると噂などで耳にすることはあるが、未遂に終わった人の話はなかなか耳には入らない。

死ねば葬儀の知らせで知ることはできるが、未遂となると入院の知らせは入ってこない。

だから意外と未遂は知ることなく、ここまで多いと感じずにいたのだろう。

 

この比率を知ってから私は、生きるも地獄、死ぬもハードだと悟ったのだ。

なんかもうだめになったら死ねばいい。

そんな軽い気持ちだったことを思い知らされた。

 

そういえば私も10年くらい前に、自殺未遂してたし、首を括るまでに至ってもコード(当時はヘアアイロンのコードで首を吊ろうとしていた)が首に食い込むと恐怖と苦しさで踏み台から足を宙へ放り出すことができなかった。

 

なので最近は、この人生に降りかかるデバフ(ゲームにおける能力などを下げる効果のもの)をどうやって切り抜けるかや、バフ(ステータスを上げる効果)を使いこなすかという、高難易度のゲームを攻略するスタンスで生きている。

未だに厭世的なところは変わらないし、死生観においても「人間いつか死ぬからいつでも死んでいい」という、「死」に対する恐怖も「生」に対する執着もない。

ただ自殺願望はかなり薄れた。

生きることも面倒な人間は、自殺のリスクすら面倒だと感じるようだ。

 

 

 

 

アニメ「バビロン」最終話から、続くことがほんとうに「善」のなかを考えた

自殺は善か悪か。

論理的な答えを追求していく中で「善」に当たるものは、一体何なのか。を終局的な課題にした、アニメ「バビロン」。

野崎まどさん原作の同タイトルアニメは、視聴者にあらゆる衝撃と課題を与えた。

 

最終話で導き出された「善」の答えは「続くこと」だった。

継承こそが人類の「善」。遺伝子、文化、そして考えることを継続させることが「善」だと導き出した。

 

しかし私は思う。

続くことが「善」であるという考えは、あくまで客観的なものではないかと。

遺伝子が次世代に紡がれること。

文化が継承されていくこと。

研究を続けること。

もっと身近なものに焦点を当てれば、「何か」を続けることは、すなわち、ひとつのことを継続して行い続けること。

それは「続ける」本人にとって「善」であるのか。

 

客観的に見ての、美徳ではないのだろうか。

たしかに命が紡がれていくことは美しいだろう。

文化が残っている様は、気が遠くなるほどの過去に誕生した、英知の結晶でもあり、芸術だ。

科学者たちが考え続けた結果は、私たちを豊かにした。

 

しかしそれは、続けた本人の主観から見て「善」だと言えるのか。

 

昨年、富士山に登頂したニコ生主が滑落し、死亡した。

その後のドキュメンタリーで、彼は何年もニコ生主を続けてきた人物だと明かされた。

決して視聴者数は多くはなかった、むしろ何年も続けてきた割には少なかったとまで推測される。

しかし彼は、数少ない自分を支えてくれる視聴者の期待に応えようと、冬の富士山山頂からの景色をカメラに収めた。

美しかった。

登山に興味のない私でも、自然がつくりだす偶然の重なりに心を奪われた。

 

そのドキュメンタリー記事を見る限りでの憶測だが、彼にとってニコ生を配信することは、おそらくアイデンティティだった。

今となっては、彼がどんな目的でニコ生配信を「続けて」きたのかはわからないが、これも「善」であると言えるのか。

 

会社でのパワハラはひどい業務形態により精神を病んだ挙句、自ら命を経った彼女。そこまで追い詰められるほど仕事を「続けた」彼女の行動は「善」であると言えるのか。

 

私は思った。

善悪は、他人の独善的な判断であり、その思考が過半数であれば決定する。

善か悪かを判断するのは、民衆の感情であり、その時の社会情勢によって変動する流動性のあるものではないかと。

民衆の大半が黒だと言えば、それは「悪」になる。

善悪は、揺らぐ。

だから人は議論すべきだ。

「こうだ!」と声高に発言したものが正しいと、思考を放棄し同意する。それは善悪の判断を声の大きい「誰か」に委ねただけになってしまう。

 

そう考えると「続ける」ということは、善か悪かを議論しながら、時代の流れに沿って揺らぎながらも模索していくことにもなるのだろうか。

 

「続く」ことが善か悪か。

主観で見た場合の景色によって、それは流動し、どちらでもないし、そうでもある。善悪はとても、曖昧なものなのかもしれない。