アニメ「バビロン」最終話から、続くことがほんとうに「善」のなかを考えた

自殺は善か悪か。

論理的な答えを追求していく中で「善」に当たるものは、一体何なのか。を終局的な課題にした、アニメ「バビロン」。

野崎まどさん原作の同タイトルアニメは、視聴者にあらゆる衝撃と課題を与えた。

 

最終話で導き出された「善」の答えは「続くこと」だった。

継承こそが人類の「善」。遺伝子、文化、そして考えることを継続させることが「善」だと導き出した。

 

しかし私は思う。

続くことが「善」であるという考えは、あくまで客観的なものではないかと。

遺伝子が次世代に紡がれること。

文化が継承されていくこと。

研究を続けること。

もっと身近なものに焦点を当てれば、「何か」を続けることは、すなわち、ひとつのことを継続して行い続けること。

それは「続ける」本人にとって「善」であるのか。

 

客観的に見ての、美徳ではないのだろうか。

たしかに命が紡がれていくことは美しいだろう。

文化が残っている様は、気が遠くなるほどの過去に誕生した、英知の結晶でもあり、芸術だ。

科学者たちが考え続けた結果は、私たちを豊かにした。

 

しかしそれは、続けた本人の主観から見て「善」だと言えるのか。

 

昨年、富士山に登頂したニコ生主が滑落し、死亡した。

その後のドキュメンタリーで、彼は何年もニコ生主を続けてきた人物だと明かされた。

決して視聴者数は多くはなかった、むしろ何年も続けてきた割には少なかったとまで推測される。

しかし彼は、数少ない自分を支えてくれる視聴者の期待に応えようと、冬の富士山山頂からの景色をカメラに収めた。

美しかった。

登山に興味のない私でも、自然がつくりだす偶然の重なりに心を奪われた。

 

そのドキュメンタリー記事を見る限りでの憶測だが、彼にとってニコ生を配信することは、おそらくアイデンティティだった。

今となっては、彼がどんな目的でニコ生配信を「続けて」きたのかはわからないが、これも「善」であると言えるのか。

 

会社でのパワハラはひどい業務形態により精神を病んだ挙句、自ら命を経った彼女。そこまで追い詰められるほど仕事を「続けた」彼女の行動は「善」であると言えるのか。

 

私は思った。

善悪は、他人の独善的な判断であり、その思考が過半数であれば決定する。

善か悪かを判断するのは、民衆の感情であり、その時の社会情勢によって変動する流動性のあるものではないかと。

民衆の大半が黒だと言えば、それは「悪」になる。

善悪は、揺らぐ。

だから人は議論すべきだ。

「こうだ!」と声高に発言したものが正しいと、思考を放棄し同意する。それは善悪の判断を声の大きい「誰か」に委ねただけになってしまう。

 

そう考えると「続ける」ということは、善か悪かを議論しながら、時代の流れに沿って揺らぎながらも模索していくことにもなるのだろうか。

 

「続く」ことが善か悪か。

主観で見た場合の景色によって、それは流動し、どちらでもないし、そうでもある。善悪はとても、曖昧なものなのかもしれない。