間引かれるべき生き物

オタクよりの同僚に同人誌の話をした時のことだ。

「同人誌は基本的に利益を出してはいけない。だから印刷代だけをちょうだいするという体で価格設定をしているから、利益はほとんどない」

という話をしたらすごく驚かれた。

もちろん大手や壁サーなどの一部(統計だと4割だったかな)は黒字だ。

だが利益が得られないのに本を出すということが衝撃だったようだ。

 

その反応を得て冷静に考えてみるとたしかにそうだ。

お金では得られないものを得るための趣味であり活動だ。それにけっこうな時間と労力を費やする。回収できるかどうか、蓋を空けてみないとわからない印刷代、数万円を先払いする。慣れてくると部数を把握できるが、先に数万円の印刷代を支払うことに変わりはない。

 

それは私が思うに、生活基盤が整っていて生活に支障のないラインをきちんと把握できる自制心を持った者が携わることを許されている趣味ではないだろうか。

これはもう今ここで私が書かなくても、あたりまえのことなのだ。何を今さら…という思いで読んだだろう。

どんな趣味でもそうだ。

音楽だろうが登山だろうが、生活費を確保した上で趣味にかかる費用を捻出するのが一般的だ。

趣味とは、自分の収入に見合った範囲で楽しむ。

なんでそれを義務教育で教えてくれなかったんだ。教えられずとも身につくものなのか。

このへんを考え、身の丈に合わない出費を留められるかどうかが、債務者と非債務者の違いなのだろう。

むしろ非債務者からすれば「なんでそんなこともわかんねーんだよ」と思うだろうが、いよいよやばいぞ、というラインを越えるまで気づかないのだ。

 

10年以上前に二次創作をしていた時、元配偶者(非オタ)に「そんなにネットを見てるならレシピのひとつでも調べろよ」と言われたことがある。

今考えるともっともなご意見だ。

そう言われるほど、私は料理が苦手でそれゆえにレパートリーも少ない。主婦としての責務を半分も果たせていない状態であるにも関わらず、金にもならない二次創作に没頭していたのだ。

その時はまだネット上に作品をアップするだけだったので費用はゼロ円であったが、この場合はお金の問題ではない。

きちんとした生活基盤の構築を疎かにしてまで趣味にのめり込んでいたことへの叱咤だ。

 

そう考えると、お金がかかろうがかかるまいが、趣味を嗜むことを許されるのは、生活に支障が出るラインを見極められる、そしてそのラインを越える前に踏みとどまることのできる自制心を持っている人。に限られるのではないか。

 

今こうして金にも生きる上でも、なんの生産性もないブログを書いている時間にシンクに溜まった洗い物を済ませるべきなのだ。

今後私はマーレに住むエルディア人のように自分の非を胸に刻み、名誉社会不適合者の称号を得られるよう娯楽を節制すべきだ。

私のような社会的に底辺の人間は、まっとうな人間に批難される。聞いた話だがこれは人間が原始時代から持つ本能らしい。

原始時代の人間は、劣等な人間を殺し間引きして生き延びてきたらしい。

優秀な人間だけを後世に残し、また狩猟や農耕などで使えない人間は効率を下げると選別したおかげで今の我々が存在しているらしいのだ。

この話を聞いてとても合理的だと思った。倫理的には相応しくないが、下等な人間が群れにいるおかげで群れの生存率が下がることを考えると正しい判断かもしれない。

こういった本能が、100万年経っても根付いているそうだ。

だからネットでもなんでも、社会にそぐわない人間を叩く。叩いて叩いて追い詰める。すると、直接手を加えなくても会社なり界隈なり世界から消える。

言葉を得た原始人たちは、そうして群れの癌になる人物の噂を広め、満場一致で「こいつは殺しても問題ないやつだ」と間引きを可決させた。そうすることによって、手を下した人物は凶悪な人殺しではなく、群れの生産性を高めたヒーローのような扱いを受ける。手を下した人にも罪悪感は生まれないだろう。

 

この人類間引き制度が現代に適しているのかどうかわからないが、生活保護など福祉の恩恵にあやかっている人を憎らしく思うのは人間の本能なのだ。

そう考えると、社会福祉制度というのは本能に抗った制度なのかもしれない。

会社にいる「使えないやつ」を辞めさせたい。その気持ちは原始時代から紡がれてきた人間の本能なのだ。

 

 

創作に携わる人やオタクを含むサブカル人は「生産性がなくとも好きなことならいくつになろうと、親になろうとやっていいんだよ」なんて甘言を口にする。

しかしそれは、前途のように生活基盤を安定している者に限る。