社会不適合者 1

ー僕は社会に存在しない。

 

会社を出て、判を押したように同じ道をとおり駅へ向かう。足早に、向かいから歩いてくる人間を華麗なまでに縫って進む。とにかく一秒でも、外の空気に触れていたくなかった。

ひとり暮らしのアパートを出れば、そこは社会だ。そこでは、人間でいることを誰もが強いられている。いや、強いられるまでもなく、皆、あたりまえに人間としての秩序や道徳だけでなく、当たり障りのない人としての行動をとっている。そうでなければ、人間は簡単に社会から弾かれてしまう。

皆、平気な顔をして、今日も、明日も、昨日も、一昨日も、人間として振る舞う。そのことになんの苦痛もないように。むしろ、苦痛など感じるわけもないといったふうに。ごくあたりまえに、人間としての生活を送っている。

程度はあれ、悩みや苦悩を持ち合わせていながらも、それでも社会で生きることを悲観せずに日々を昇華していく。

一年に一度、自分がこの世に生を受けた日を悦び、死ぬのを恐れている。

この世に生を受けた。そこに本人の意思は微塵もない。望んでこの世に生まれおちた者など、ひとりもいないはずなのに、なぜかその日を待ちわびていたかのように他人からの祝福さえも受け入れる。

彼にはそれが心の底から理解できなかった。望む望まざるに関わらず、人生を与えられたことに。これは何かの罰ゲームか。両親を恨みさえした。

 

無駄のない動きで、改札にICカードをタッチし、追い立てられるように目的のホームへ向かう。同じ時間、同じ電車に乗り込み、彼は家路を急ぐ。まるで誰かに付け狙われてるいるかのように、彼の歩くスピードは競歩選手にも劣らない。とにかく一刻も早く、社会に溶け込むために必要とされる『人間性』を脱ぎ捨てたかった。人間であることから、解放されたかった。

 

息苦しい。他人の話し声が耳から苛立ちとなって肺を満たす。個々の発する体臭、香水の臭い。自分以外の人間から放出されるものすべてが、彼にとっては疎ましかった。

会社を出てから耳に装着しているイヤホン。ワイヤレスで繋がった携帯端末の音量をさらに上げる。視界に無遠慮に入ってくる息をしてそこにいる名も知れぬ肉体。能動的に目にしたいとは思わぬそれは、ただの不快な景色でしかない。

彼は吊革につかまり目を閉じる。聴覚を支配するけたたましい音楽。自分の感覚に攻撃を与えるすべてをシャットダウンする。

どうしてこの世界は、こんなにも不必要なもので溢れているのか。

彼は、社会から、世界から切り取られた自分だけの世界を望んだ。

 

 

肉体だけが時間という不可逆的なレールに乗って、進んでいる。形だけは人間ととれる肉体。いわば人間という物質。だが彼の物質とは別の中身は、社会という世界において平等に与えられた時間の外にいた。

自分の肉体だけが、かろうじてそこに適応できるよう、可能なかぎり模範して。一歩社会へ出た彼は、彼ではなく、人間の肉体を持ったただの物質にすぎなかった。

しかしそれを誰も疑うことはなかった。彼の精一杯の人間を模範した振る舞いは、見事だったからだ。誰も、彼をこの世の異質だとは感じていない。見抜けられないほどの完璧な偽装と、社会の外に弾かれた彼の中身は、徐々に距離が離れていく。彼は外側からそんな自分を見ていた。意識だけが、彼自身のアイデンティティだった。

しかしそんなものは、誰も認めなかったし、存在にすら目を向けようとはしなかった。

なぜなら彼は、この世界に存在し得ない人間だからだ。もはや人間ではなく、意識だけの存在。誰の目にも映らない、分子の集合体。

彼はそれを孤独だとは思わなかった。彼の意識は彼の世界にだけ存在していた。他者と比べ、疎外感に打ちひしがれることのない、彼だけの、彼が創り出した世界。彼を批判する者もいない。彼が妬ましく思う者もいない。他人の生活や価値観に自らを照らし合わせ、その差異に劣等感を抱くこともない。

唯一無二として、永遠に存在できる世界を、彼は手に入れた。まるで母胎の中で、安らぎを与えられるだけの胎児のような気分だった。

安らかで穏やかな。慎重に守られる世界に、彼は安寧を見出したのだ。

 

 

『アンチ・ソサエティ・システム』は多くの社会的弱者の支持を得た。

インターネットを拠り所とし広まったこのシステムは、行政特例区画と名付けられ、国家は現実的な棲み分けを施行した。

強者と弱者。人間は乱暴に振り分けられた。強者との対比に弱者とラベリングされたが、彼らは決して弱者というわけではない。ただの明確さを表すためのカテゴライズだとしても、そのネーミングはあまりにも弱者とくくられた者たちを見下しているとしか思えない。彼らはただ、この社会のシステムにたまたま適合できなかったにすぎない。それは弱さからくるものではない。

人間を含め、生き物は、種の存続のために二種類の遺伝子を与えられたと聞く。信憑性は定かではないが、我々人間にも向き不向きがあるように、たとえば力の強い生き物だけが存在する世界なら、彼らには慎重に身を守るという発想をせず、さらに力の強い者に殲滅させられてしまうかもしれない。

我々は、互いの能力を補い、適材適所で使い分けるために個々の能力差を与えられたとも考えられる。

それが、過半数の人間が生きやすいようつくられた社会に適応できないという理由だけで、弱者と見なされた。この社会で生きることに不自由さを感じるのであれば、この社会を出て暮らすことを許された。と言えば聞こえはいいが、ていよく排除されたといってもいい。

好都合なことに、彼が『アンチ・ソサエティ・システム』をつくりあげた。社会で生きることの辛さから逃げ出すための、彼らだけの新しい社会。

社会に不適合な者と、この社会に満足している者を切り離し、それぞれの世界で互いに干渉せず生きることは、お互いのためでもある。政府は最終的にそう判断したのだ。

 

社会に生きづらさを感じていた者は、何も彼だけではなかった。これは彼だけの問題ではなかった。社会に居場所をなくした者たちは、彼のつくりだした虚構の世界を求めた。社会と繋がる必要のない、殻に守られ、自分で在ることを赦された世界。

殻の外では、それを孤独や寂しさと結びつけた。他者との繋がりを持たぬことを、哀れむ者もいた。

両者は互いの理解に着地点を見いだすことを無意味だと悟った。ならば両者が共存することは不可能だ。それが、アンチ・ソサエティ・システムだった。

社会に居場所をもつことができず、人であることに疲弊した者たちは、彼がつくりだした世界に辿りついた。その波紋はのちに弱者と呼ばれる者たちの間でまたたく間に広がった。

彼は、インターネットの中に自らの意識だけを移植させた。意識という量子の集合体を、コンピューターを媒体にしてプログラム化した。彼の意識は電子の海の中でたゆたった。誰の干渉も受けない、独自のサーバーを使い、彼は電子の中にその意識をゆだねた。肉体を現実世界へ置いて。彼は社会を捨てたのだ。

家庭用のパソコンでも、そのシステムを簡単に組み込む技術を解析した人間が現れると、彼と同じ思想を持った者たちは取り憑かれたようにネットの海へ潜り込んでいった。

抜け殻と化した肉体が、パソコンの前に転がり、生体反応を残したまま、意識だけがそこに存在しない。という現象が社会問題になるのに、さほど時間はかからなかった。

 

政府はこの事態に危機を感じて、善後策を提案したが、社会の在り方を否定している人間が予想よりも多いことに頭を抱えた。そういった人間たちは、まわりの静止も聞かず、次々とネットの中へ消えていった。社会から存在を消した。

これは一種の集団自殺では?との声もあがった。だが肉体は死を意味していない。前述の通り、政府はこの事態を都合よく解釈し、問題を議論することを放置した。

人類は、新たな生命の在り方へと舵を切った。何万年、いやもっと気の遠くなるような時間の中で繰り返されてきた人類の進化は、ここにきて大きく二つに分岐した。

ネットの海に流れ込んだ意識という生命体。そもそもそれを生命と呼ぶかどうかも、それぞれの捉え方にゆだねられる。彼らは種の繁栄を望まない。望むどころか、種を残すことが不可能だ。生殖をもたない意識というプログラムなのだから。

 

バーチャル世界の住人区画。それがアンチ・ソサエティ・システムに取り憑かれた人間を、社会から隔絶させた現実世界。

殻になった肉体を、最低限、生命が途絶えることなく保存しておく医療装置を備えた奇妙な街。意識をアンチ・ソサエティ・システムへ移行した肉体を収容し、遺体安置所のようにベッドの上に無作為に並べられ、生命維持装置を取り付けられている。まるで社会を捨てた者たちの墓場だ。

彼の肉体もそこに並んでいた。とても穏やかな顔で眠っているようにしか見えないが、彼はそこに存在していない。彼だけではない。皆、社会から抜け出したことで、安寧を得た安らぎの表情で目を閉じている。

「不思議なものだ」

厚生労働省、行政特例区画、生命管理統括部長の荒島はつぶやいた。ガラスの向こう側に並んだ、揃いの医療用ガウンをまとい整然と横たわる肉体を眺めていた。

「彼らが、こんな穏やかな表情をしていられるのが、社会からの隔絶だとは、皮肉なものだ」

「当初は、一種のサイバーテロ集団自殺かとも思いましたがね」

臨時特務省、特例区画統合管理部長、御剣(みつるぎ)は、抑揚のない声で冷えた目線でガラスを透過していた。

社会に抗う術をもたず、またはなくし、虚構の世界へ逃げ出した彼らを見つめていると、御剣の瞳に苛立ちが滲む。急激に身体がニコチンを求めて、肺がうずく。

「行きましょう。我々にできることは、彼らを維持し、管理することだけです。」

御剣は荒島の背後をとおり、廊下の先に向けて歩きだした。廊下の奥にある階段を降り、昇降口から外に出ると、この施設で唯一の喫煙所があるのだ。もちろんそこを利用するのは、この特例区画に訪れる政府の人間や、施設に勤める医療従事者だけだ。殻になった肉体の彼らに、喫煙という嗜好は必要ない。

御剣は背中に荒島の足音を確認しながら、階段を降りた。無意識にその足は速度をあげた。階段の手すりに手を添えていたことにすら、御剣は自分でも気づかない。三階から一気にかけ下りる御剣の背中は、荒島の視線からはどんどん遠ざかった。御剣が踊り場の角を曲がる。一歩いっぽ、単調に階段に足を乗せる荒島が踊り場の角を曲がったころには、御剣の背中はもう荒島の視界には映らなかった。

御剣は喫煙所のドアを開けるやいなや、ポケットから煙草をとりだし火をつける。ひと口めを大きく吸い込み、肺の中に充分にいき渡るよう、ゆっくりと時間をかけて煙を吐き出す。この瞬間が、何よりも志向だった。肺の隅々にニコチンが充満し、血管をとおり、毛細血管に流れだし、身体中がニコチンに満たされているような感覚。収縮した脳の毛細血管が、思考をゆるやかにぼかしていく。眩暈のような多幸感を味わう。それかほんとうに多幸感なのかどうか、科学的なことを用いれば判断しかねる。

だが御剣はたしかに幸福をかんじていた。口内で軽くころがし、喉の奥へと時間をかけ、じっくり身体全体で味わうように。そして白く濁った煙を空中に漂わせる。景色に溶けていく白く儚い気体は、美しかった。御剣の目には、自身の身体から吐き出された有害物質が、ひどく美しいものに見えていた。

 

 

生きることに幸せを願うことは不可欠だ。ただ、幸せの定義は曖昧であり、個々の主観、他者からの押しつけ、一般的に定義されたものなど。それらの不特定な情報が、幸せというものをコントロールしているようにも思える。自らを幸せを見いだせないでいる者は、実のところ、幸せという価値観にコントロールされているのではないかとも思える。

 

さて、アンチ・ソサエティ・システムに移行した人間たちは、果たして幸せな生活を送っているのだろうか。

彼らは仮装空間の中で、それぞれの世界に閉じこもることで、社会での生きづらさから解放された。さまざまな抑圧や固定概念から守られた、安息を手に入れた。

そう思っているのは何も彼らだけではない。

アンチ・ソサエティ・システムに移住した彼らの肉体を維持しているのは国の機関だ。ではその費用は税金で賄われている。そこに疑問や怒りを国民が抱くのは当然だ。

なぜ我々の血税が自ら楽な生き方を選んだ人間を維持するために、利用されなければならないのか。安全圏内であるSNSから批判をぶつける者は、もっと乱暴な言い方をする。

「自らを社会不適合者と名乗り社会から逸脱することを選んだ人間など、死体と同然だ。それを維持するために、医療

や税金、そこに関わる労働力を必死で社会を生きている私たちが手厚く保護することに意味はあるのか。今すぐその生命維持装置を解除し、社会で、現実を生きている人間に対して有効活用すべきだ」

このような意見はSNS上でまたたくまに賛同を得た。ひとつの過激ともとれる意見を発したのは、フォロワー数五桁のSNS上では有名人の域に入るアカウントだった。

この人が言うのならそうだ、その通りだ。考えることを放棄した人たちはその意見にぶら下がった。打開策も折り合いも着地点も提案することなく、ただ被弾することにぶら下がった。

声の大きな意見はより強い。過半数を得られればそれが正解であり、絶対的な正義であると疑わない人々の思考の集合体である。

こうした思考ハックにより追い詰められた反対派や、もっと別な側面を捉えようと試行錯誤する者は、戦時下の非国民のように扱われた。

 

荒島は国民のこのような動きを、壁一面のモニターで眺めていた。まるで盤上を見るかのように。自分が身を置く国の現状を、無感情に、ただただ俯瞰で見ていた。

「これこそが、アンチ・ソサエティ・システムなのだよ」

モニターの青緑色の光を受けた荒島の顔を、ちらりと横目で見遣る。

「彼ら、社会に残った者たちも、ということですか」

「いやそうじゃない。だからこそ、必要なシステムだったのだよ」

荒島の意図を、わかったようなわからないような、複雑に顔を歪める、傍らに立つ女性。あえて地味な濃紺のパンツスーツをまとっているような。彼女の容姿からもメイクからも、それを着用することに自らの意思があるようには思えない。

背筋をぴんと伸ばして立っているが、彼女はさっきから足の重心をしばし左右に移動させ、窮屈なパンプスの中に押し込めた足を気にかけている。

「靴をぬいでも構わないよ」

荒島に、モニターに視線を向けたまま提案され、彼女は頬がカッと熱くなった。

見透かしていたのなら、そもそもこんな靴を履いてくるのが当然のような風潮を、どうにかしてくれればよかったのに。

彼女は自分の隣で革張りの回転椅子に座っている上司に、軽蔑と苛立ちをこめた視線を送った。それが彼女の精一杯の抵抗だった。

「では、お言葉に甘えて」

彼女はパンプスを乱暴に脱ぎ捨て、次にジャケットのボタンを外し、足元に投げた。ジャケットの下に着込んでいたワイシャツの袖を捲り、結んでいた髪の毛をほどくと、ゆるくカールしたロングヘアが背中に広がった。彼女はひとつため息のように息を吐く。同時に髪の毛をかきあげて腕を組んだ。

「馬鹿げているだろう?」

荒島は身軽になった彼女を見もせず、だが目を細めて笑っていた。

「ええ、とても」

「それがこの、社会だよ」

荒島は上着の内ポケットから煙草を取りだし、彼女にも一本勧めた。

 

つづく。(かもしれない