「彼女のため生まれた」浦賀和宏著を読んで、社会の恐ろしさを感じた
いきなり切り出すと今回の浦賀和宏先生のミステリー。日常に潜む恐怖に切り込んできたな、という印象を持った。
若干ネタバレありつつの感想なので、これからまっさらな気持ちで読みたい方は戦略的撤退をおすすめします。
まず、加害者、渡部常久の母親である葵。
彼女はしきりに「自分の育て方が悪かった」と口にする。
葵には子供が三人。長男、長女、そして今回の主人公の母親を殺害した加害者である次男、渡部常久。
この三人とも未婚であり、常久は引きこもりだ。世間からしたら、あまりよろしくない、レッテルを貼られていると葵は感じていた。
就職、結婚、それに続く孫の顔を親に見せる、という自分が育てた子供がまっとうに育ってくれたかの物差しとして、この三つが葵の中で基準値とされていた。
でもこれは、葵だけではないと思う。むしろ葵は、世間の風潮を鵜呑みにしていただけにすぎない。
就職し、結婚し、親に孫の顔を拝ませることが子のステータスであるかのような世間の風潮。
そして、そういった子供に育たなかったなら、それは親の育て方に責任があると批難する風潮。
そう、子供という人格は独立しているにも関わらず、人間が何か犯罪を犯した時、その犯罪の程度に関わらずまず生育環境を遡ることが珍しくはない。
成人した子の罪を、生育環境に結びつけ、育て方に問題があったのではないかと、親にまで罪を被せようとする。まるで、子は親の成果物であり、子はすべて親の一挙一動により人格が形成されてしまうかのような報道。
それにより、子供が成人してからも何かしでかした際、親は「自分の育て方がまずかったのではないか」と責める図式ができてしまう。
こと最近(ってわけでもないか)だと、俳優の高畑さん(下の名前忘れた)が、女性に性的暴行を加えたとして逮捕された。その際、母親である高畑淳子さんの育て方について、バッシングの声があがった。
街頭インタビューでは、子の犯した罪を親が謝罪する件に、若者からも親なんだから謝罪すべきとの強い意見が出た。
この場合は、双方芸能人ということもあり、親がマスコミに向けて謝罪する形は当然のように大衆も求めているが、それにしても既に子供は成人であって、罪を犯したことは本人だと切り離して考えることがされていない風潮に疑問を思った。
つまり、親の育て方が成人した子供の動向にまで強く影響を及ぼすと、大衆のほとんどは信じているのだ。
となると、親である人々の責任は重い。自分の育て方ひとつで、子が犯罪者になる可能性を抱えて子育てをしなければならない。
たしかに子を産んだ時点で、まっとうな人間に育てようと努力することは大切だ。しかしそれは、何も親だけが背負わなければならない問題なのだろうか。
物語に話を戻すと、葵は長男と長女がグレてしまったことを自分の育て方が悪かったからだと嘆き、高齢出産というリスクを抱えてまで次男の常久を出産した。
今度こそはまっとうな子供を育てたいと。同じ轍は踏むまいと。
ここで思うのが、果たして長男と長女がグレてしまった責任のすべては、葵にあるのだろうか。
当時、長男と長女は中高生だった。そこでグレてしまったら、もうこの先まっとうな人間になる挽回のチャンスはないと、葵は悲観したしまったのだろう。
しかし、事実、私が社会に対して感じていることは、十代ですら躓いてしまった人間に対して更生のチャンスというものは、極めて難しい。
事件の発端となったのは、葵の妬みからだたった。
被害者である、主人公の母親は、葵の妬みを買って殺されてしまった。被害者の二人の子供のうち、長男は大手飲料メーカー勤務で結婚し子供をひとりもうけている。
次男であり主人公は、証券会社をクビになり、現在はフリーライターを生業にしている。
40歳をすぎてバイトで食いつなぐ三人の子供たちを持つ葵からしてみれば、被害者の子供たちは充分羨望の対象になった。次男に至っては、会社をクビになりあまつさえ離婚し、フリーライターという不安定な仕事だが、それでも実家を出て自分の力で生活しているだけで、どうして自分の子供たちとはこんなにも差が出てしまったのだろう。と、嘆く対象になったのだ。
私はこれを、単なる怨恨ミステリーだとは思えない。
社会がラベリングした「幸福」が元凶になっていると思う。
人間の幸福度は他人と比較して測るものではない。そんなあたりまえの感覚は、集団の中において無意味だ。
目の前に自分よりも得をしている者があれば、自分の幸福度は下がる。しかしそれを、相手が自分より得をしている、と映ってしまうのは、社会の幸福論に左右された結果だと思う。
人間は生まれた時から平等ではない。
たとえばこれが、生まれた環境、個体差がほとんど同一だとしよう。その中で与えられるものが差別化されていたら、それは不服だと思うだろう。
同じ時間、同じ場所で、銀貨一枚に対し、ある者はりんごひとつを与えられ、別の者はりんご三つにぶとうまでま与えられていたら、それを妬む感情は生まれて当然だろう。
しかし生まれた時点で平等性を欠いている人間社会で、幸福度を測る明確な基準というものは存在し得ないのだ。
あの人はりんご三つとぶとうまでもらっている。だが私にはメロンがある。そしてそのりんごの一つは腐っている。
こういった感じで、他人がもつあらゆるステータスの側面だけで判断し、妬むというのはあまりにも軽薄で恐ろしいことなのだ。
もちろん、妬みの感情自体を否定するつもりはない。
だが、そういった社会的ステータスに価値観を与えて、それを幸福の判断基準としているのは、社会の風潮にも原因があると私は思っている。
この「親の育て方で子の人格がほぼ全て決まる、育児の重責により親が成人した子供の行動に過剰に悲観してしまう」ことと、「社会的ステータスで決まる幸福論」が葵を追い詰めた結果ではないだろうか。
もちろん作者が何を考えてこの小説を書いたかはわからない。
ただ私が「彼女のため生まれた」を読み終えた時、無言の社会的圧力がトリガーになったのではと恐ろしくなったのだ。
- 作者: 浦賀和宏
- 出版社/メーカー: 幻冬舎
- 発売日: 2013/10/10
- メディア: 文庫
- この商品を含むブログ (4件) を見る