IQの遺伝率80%という研究結果にどう対応すればいいんだ

先日、岡田斗司夫ゼミを視聴していたところ「もっと言ってはいけない」という本が紹介されていた。

その中で、親から受ける遺伝で、容姿に関わるもの(背が高いとか)は50%。だが知能に関しては80%も遺伝するという研究結果があると紹介していた。

しかもこの知能に関する遺伝だけは、11歳頃を境に開花し、よく小学校、中学校では勉強できていた人が、高校生になり成績がふるわなくなったという経験、もしくはそういう同級生がいた、ということはなかっただろうか。

まさにそれがこの知能の遺伝がもたらすものだったのだ。

具体的な例は、アメリカでよく見られる経済的な理由から双子をそれぞれ別の両親のところへ養子に出した場合。

片方は教育熱心で経済的な余裕のある家庭に引き取られ、もう片方は教育熱心でもなくそれほど裕福ではない家庭に引き取られた。

すると前者の子供の知能指数と後者の子供には差が生まれたが、その差が11歳頃を境に縮まってきたというのだ。

つまり、幼児教育など周りの環境が起因して知能が伸びるのは、せいぜい11歳あたりまででのようだ。

その後は親の遺伝子によるものが大きく関わってくるため、残酷な話ではあるがどんなに勉強をしようと知能の遺伝という壁に阻まれるということなのだ。

 

では高い知能を遺伝することができなかった人間。親がそれほど高い知能を有していなかった人間。まあ私もそうなのだが、そういった人間は大人になってどう立ち回ればいいのか。

そもそも知能の高さだけで優劣が決まってしまう現代社会が、この恐ろしい研究結果をさらに恐ろしいものにしてしまっているのだが、残念ながらこの知的優位社会は今日明日、来年でどうこうなるものでもない。

知的であることが優れている、という固定概念は、我々にもすでに細胞レベルで染みついてしまっているかもしれない。

そこで提案されていたのは、性格、つまり人間力を高めようという案だ。

性格の遺伝率は50%と、知能に比べればそこまで大きく起因するものではない。

必要なのは、知能はこれ以上伸びることはないと割り切った上で、どう社会に順応していくか。知能が低い分、やれることはなんなのか。他に伸ばせる部分を探そうという適応力を身につけることしかもう生き残るすべはないと考える。

 

ここからは個人的な意見であり想像なので、これをすると正解だとかではないのだが、とにかくあらゆる側面から物事を見聞きする。というのが適応力に繋がると思う。

Twitterのような、自分と似通った人、共通の趣味の人だけをフォローしたタイムライン上では、物事の側面しか見ることができない気がする。

そこを逸脱して、はてなブログでもいいし、noteでもいい。ネットに限らず本でもいい。手軽なところで新聞のコラムでもいい。

いろんな人間がそれぞれの思想や思考の元に発信するものを吸収する、ということで、自分なりにそれについて考えることが可能になってくるのではないかと思う。

 

最近Twitterでは、フェミニストなど、傷つけられながらも押し黙ることしかできなかった人達が、数を集めて巨大な刃を振るう姿がよく見られる。

たしかに無防備の状態で傷つけられたという事実に、声を上げるというのはとても勇気のある行動だと思う。そして、それに呼応するように、同じように声をあげられなかった立場の人達が、意見を言いやすくなった環境は、これまで男性から無遠慮な扱いを受けてきた女性にとっては頼もしい動きだろう。

しかし、彼女たちは一方的に刃を振るうだけ、もしくは怒りの散弾銃を乱射しているようにも見える。

これまで虐げられてきた、恨みはらさでおくべきか。といった具合にとにかく切り込み、乱射し、この痛みをわかれ!と言わんばかりだ。そこに平和的解決はあるのだろうか。

自分たちより力ある者へ、数での攻撃を安全圏という塹壕から繰り出す兵士。もはやこの図は戦争ではないか。

攻撃に対し、相手はどうするか。さらに攻撃をし、タイムラインは弾丸が飛び交う戦場と化している。

これは、誰が特をするのだろう。

 

こうした過激な側面だけを目にしてしまうことで恐ろしいのは、同調圧力というものが生まれてしまうこと。

フォロワーの多い人、つまり声の大きい人の意見なのだから正しいはず。といった具合に、自分で考えることを放棄し、他者の考えに同調することで自分もその仲間として大勢の中に加わることができる。言わば思考ハックのようなものだ。

 

フェミニストだけではない。

先日起こった池袋で母子が車に轢かれ亡くなった事故。

あそこまで証拠が揃ってありながら、加害者が未だ逮捕されないことに「上級国民」などという揶揄の言葉まで生まれ、加害者の名前をハッシュタグにし、加害者と正当な法の裁きをくださない国のやり方に対し、声を荒らげたツイートが出回った。

たしかにあの加害者は正当な処罰を受けるべきだが、個人をハッシュタグにまでし安全圏から声高に被弾する彼らのやり方は、正義と言えるのだろうか。

彼らはTwitterを使いレジスタンスを気取っているようにも見える。言ってることは正しいが、あまりにもやり方が過激すぎるのだ。

しかしこれに賛同しRTやいいねを押す人の多いことにも驚いた。ボタンひとつで彼らの過激な正義に賛同してしまう。

この仕組みこそ、考えることを放棄してしまっているのではないだろうか。

反射的にボタンをタップできることで、簡単に読み手の思考をハックしてしまう。なぜならTwitterは流れが早いからだ。今ここで押さねば、このツイートは1時間後には埋もれてしまうかもしれない。

回転寿司と同じだ。

特に深く考えもせず、反射的に今この皿を取らねば…という思考から手を伸ばす。ほんとうにそのネタは今食べたいネタなのか。という考える隙を与えさせないシステム。

そして同調する者が多ければ多いほど、自分の考えは世の中で正解として認められている。そういう錯覚が生まれてもおかしくないのだ。

 

反射的ではなく、それを読み、いったん自分の中の考えと照らし合わせて、自分なりの意見をだす。

このプロセスがおざなりになっているように思える。それがこれからどんなに恐ろしいことになるのか。

極端な例をあげれば、戦争と同じことになる気がしてならない。

 

タイトルからかなり話は逸れたが、これが知能に頼ることができないと、本能的に悟った人間が選んだ短絡的な選択なのかもしれない。

知能が低かろうが、色々なものを吸収することは決して無駄ではないと思う。

もうこの際、映画でもアニメでも漫画でもいい。そこには作り手の意思が、考えが、メッセージがある。それを受けてどう捉えるか。

その繰り返しで、自分なりに局面をかんがえ、乗り越える力が身につくのではないかと思う。

 

岡田斗司夫ゼミ

https://youtu.be/NUgoWOk1ITA