中学校に通ってたことを未だに後悔している

中学を卒業してからもう四半世紀になろうというのに、未だに中学校に通っていたことを後悔する気持ちが噴射口から吹き出すことがある。

 

後悔する理由は無駄だったからだ。

何ひとつ得たものがない。

 

勉強にしたって、中学三年生の四月から塾に通い始め、半年後には偏差値が10も上がった。

まず学校の授業というシステムの中では、私は学力が身につかなかった。

 

そして友人関係に至っても、現在、中学の同級生とはひとりも連絡をとっていない。

さらに言えば、同じ学区内というだけで狭い世界に押し込められて集団を意識させられるこの仕組みが、自立心をへし折ったとまで考えている。

この狭い世界の中でうまくやり過ごさなければ、自分は弾かれてしまう。それは社会からの孤立であり、その先に続くレールから落っこちたも同然である。かのように思わせる、限界集落のような緊縛性。

 

そこで得られるものなど私にはなかった。

ただ辛い思い出だけが残り、私の人生において三年間の無駄が記録されただけだった。

 

とくに厄介なのが、中学までは義務教育にカテゴライズされているということ。

中学校へは国民として通学する義務があると植え付けられ、それに従うことになんの疑問も抱けない。疑問を抱くことを教えてくれるはずの大人でさえ疑問をもたない。

 

境界線からはみ出すことは、この先の人生においても「死」を意味する。だから自分の意思とは無関係に加入させられたこの狭い世界の中で、他人の顔色を窺いながらうまくやってみせろ。はみ出し者にはそれ相応の苦痛がおとずれる。

まったく、恐ろしい洗脳社会だ。

 

だから中学でも会社でも、小さな集団に馴染めないからといって、人生は終わるわけではない。

終わると思い込んでいる人間たちが、怯えを口にしているだけなのだ。

そこは世界ではなく、単なる小さな村だ。

自分で村をつくるのもいいし、拠点を複数もってもいい。

世界じゃない。ただの小さな村の中で、村民を演じている必要なんてないのだ。