魔女も受け入れてくれる魔女宅の世界に住みたい
昨日、何回目かの魔女宅を見て思った。
魔女すらも軽々と受け入れるあの街なら、私のような社会不適合者でも受け入れてもらえるのではないか。
「私、社会不適合者のインターネットおばけ!配達はできないけど、レジ打ちならできます!あと、電話対応も無理です!」
なんて言っても間借りさせて、電話も引いてくれて、朝食まで用意してくれるだろうか。
魔女なんてマイノリティどころか、言ってしまえば異種であり、異物と恐れられたりしてもおかしくはない存在なんだよ。
例えば日本で、キキがデッキブラシで空を飛んでトンボを救出したとして。その救出劇がテレビで報道されたとして。
その場では、少年の命が救われたのことに拍手喝采だろう。
けど、その後メディアによって「あの魔女の正体は?」だの、キキがトンボを救った事実よりも、キキが魔女であることにスポットを当て騒ぎ立てるだろう。
どんなに人助けという栄誉ある行動をとっても、キキが魔女という特殊な人種?の方に興味や奇異の目が向けられる。
別にキキが魔女だろうがなんだろうが、トンボを助けた。それでいいじゃないか。
実際あの街の住人は、トンボ救出劇のあとにはキキに好意的な態度を見せている。
つまりあの街では、デッキブラシで空を飛んで少年を助けた。
この事実だけで、自分たちとは違う能力を持っているキキを受け入れたのだ。彼女が魔女であろうと、格段騒ぎ立てることもなく、英雄として祀りあげることもしない。
この街に魔女がいたって、それはこの街にとって格段気にすることではない。
この街の住人は、多様性を認め合うなどという意識以前に、多様性という言葉すら知らないのかもしれない。
そもそも住人自体、人間という生き物自体が多様なのだという意識がある。
受け入れるかどうかは、種族や特徴によるものではなく、行いによるもの。そういった考え方が無意識下に根付いているのかもしれない。
宮崎駿監督が何を思って魔女の宅急便を作ったのかは汲み取ることができないが、視聴者のひとりである私には、そういった多様性という意識すら持たない文化の中で起きた物語。に映った。
性差、障害…あらゆる人間の特徴に関し、多様性を認め合うと言っている時点で、私たちは多様性を無意識に差別しているのではないか。
どんな人間か、よりも、どんな行動を起こしたか。にスポットを当てることで、人間の特徴に対する偏見も少なくなるような気がした。