殺さかけた時の話

10年前になると思う。
当時の私は、夫と保育園年長の息子と3人で県営住宅に暮らしていた。
のちに夫のことで警察と話した際に、自分がDVを受けていたことを知る。当時の私は、DVというのはあからさまに殴る蹴るの暴行を与えられたことを指すと思っていた。
夫にそこまではされていない。突き飛ばされたり、怒鳴られたり、料理の乗ったテーブルをひっくり返されたりは、暴力の範疇に入らないと思っていた。そして、夫の私に対する行動は、すべて私が招いたものだと思い込んだ決定打は、夫に殺されかけた時に母親が私に言った「あんたが悪い」の一言と頬を目がけて飛んできた平手打ちだった。

殺されずに、殺されかけた。と表現しているのは、実際に私が今生きてこれを書いているのもあるが、ただ包丁を向けられただけなのだ。実際に刺されてはいない。胸ポケットにガンガンや月マガを忍ばせておいたおかげで、九死に一生を得たわけでもない。
夫が、私に包丁を向けるに至った経緯は覚えていない。
その時の私には、些細なことだがやりたいことがあったため「ここで死ねねぇ!」と思ったこと、寝ている息子を置いてでも一度逃げるべきかを考え、寝巻きのまま家を飛び出し実家に助けを求めたこと。そして私と一緒に団地に帰宅したあと、事情を聞いた母親からの平手打ち。その後、母親の口から飛び出した「腹に戻したい」「刺し違えてもいい」の言葉。
これらだけが、記憶として今も残っているだけなのだ。

この事件?がきっかけで、私は離婚を決意した。
だが、それから10年、生まれて初めて脳裏に死が過った出来事よりも、より鮮明に思い出してしまうのが、母親の言葉だった。
今まで溜まりに溜まっていたうっぷんが、爆発したのだと思う。母親にとって、たしかに私は存在を否定されるような人間だった。
だが、私は死んでいたかもしれない局面で、母親からそのことに対し私の身を按じる言葉がかけられなかったことが、よほどショックだったのだろう。
私の命が、これほどまでに軽んじられている。一番心配してほしかった母親にだ。
そうさせてしまったのは私自身だ。
今でこそADHDと診断がつき、薬や経験則や特性に対する様々な対処法を身につけつつあるが、親元で暮らしていた時期の私は、今思い返すと相当手のかかる子供であった。
そう思われても仕方がない。わたしはこの男に殺されても仕方のない人間だ。私が自分自身の命に執着しなくなった、認知の歪みが起きたのは、この瞬間だったかもしれない。

客観的に見て、それはどう考えても元夫や母親の言動が悪い。と理解はできる。他人が同じ状況下にあったら、私は間違いなくそう言うだろう。
しかし、私は自分に対してのみ、まだこの事件を自分のせいだと思いこんでいる。
自分の至らなさが、元夫や母親を殺人犯にしてしまったかもしれないと。
一番大切にしてほしいと願っていた人達に、私が生きていることを否定された。そして私は否定するに値する人間だと思うようになった。

そのような欠陥だらけの人間が、ほんとうに愛されるはずもない。その意識は、今でも私に根付いている。
親や元夫。私と生活を共にすれば、いかに私が人間として不出来か。それを目の当たりにし、実害を受ければ私は愛されるに値しない、生を認められない人間だとわかるだろう。

すべてがADHDの症状によるものだとは思っていない。だがそれも含めての私は、もう人に対して自分を受け入れてもらおうとすることをやめた。
出来うる限りの社会性、人格者としての振る舞いを、他人の前ですることで、人間関係を良好に築くことはできている。
だが私のほんとうの部分、元夫や親の前で振舞っていた頃の私は、もう私の中でしか現れない。

前途した警察の方にDVだと言われても、心療内科の意志に虐待だと言われても、一般論としては理解できるが、それは私には当てはまらないと思っている。
傷つけられた側面だけ見ると、そうなのだろう。私は虐待を受け、DVの被害に遭った。
だがほんとうの私を知る私自身は、そうだとは思えないのだ。
あって叱るべき言動を受けたと。
こうして私は今でも自分自身を生きる価値のない人間だと思いながら過ごしている。これがいわゆる認知の歪みだともわかってはいるが、どうしても払拭できないのだ。

正当な暴力は、私には存在する。