推しに少しだけ救われたはなし
現在、心療内科からの診断書と有給休暇届を会社に叩きつけ、11連休の四日目。
対人スキルが枯渇し、LINEすらも返信できなくなり、社会との隔離を試みたのだが、一昨日推しジャンルの映画を車で二時間かけて友人と観に行ってしまった。
いや、映画もとてもよかったし、終始友人と楽しく会話をし充実した一日を過ごせたのだが、どうも私は他人の前では対人用の自分を自動的に演出してしまう仕組みになっているらしい。
楽しかろうが、楽しくなかろうが、他人の前に立つ自分には、対人スーツを身にまとっている状態で、それはとてつもなくエネルギーを使う行為らしい。
つまり対人用の「自分」をつくることが不可能になってしまった。
すべての人間からのアクションを拒否し、完全に自分という殻に閉じこもるハメになった。
たぶんそうでなければ本来の「私」という人格が破綻してしまうっことへの、これは警告のようなものなのかもしれない。
そうして昨日は本来の「私」とは何かを模索し、「死」だけが私を救う唯一だと考えていた。
誰も私のことなど救えない。なぜなら他人が介入するということは、そこに本来の「私」はいないのだから。
しかし本日発売の週間漫画雑誌で現在どハマリしている漫画の最新作を読んだ私は、あることに気づいた。
週間漫画は、1話たった20ページかそこらの内容だ。
その中に、私に新たな選択肢を与えてくれた「推し」の言動があった。
ネタバレにはなるが、その推しは、妾腹で本妻との間に優秀な異母弟がいた。
異母弟は両親の愛情を一身に受け、軍神として、兵士たちの偶像であるように、父親から「不殺」を命じられていた。
推しは戦場で「人を殺して罪悪感を抱かない人間などいない」と異母弟に向け、拘束した敵兵士を殺して見せてくれとけしかけた。
清廉潔白が服を着たような異母弟はそれを拒んだ。父の言いつけであるからと。おまえは、おまえだけは人を殺すなと。
兵士の士気を高め弾除けの旗手として。おまえは兵士たちの偶像であらねばならぬからと。
そして、それを拒んだだけではなく、異母弟はあろうことか腹違いの兄である私の推しを抱きしめた。涙を流しながら「人を殺して罪悪感を抱かない人間などいていいはずがない」と。
舞台は二百三高地。圧倒的不利な戦況の中、敵兵を殺さねば自分たちが死ぬという戦場でだ。
本国の勝利のために、自分が生き延びるために、殺さねばならない状況下で、それすらも免罪符にはならないのか。殺す理由として、罪悪感を払拭する理由にはならないのか、と。
推しはそうして、自分を全否定されてしまった。
聖母のような慈悲で。
これには異母弟の発言に否定的な声もあったが、私はこの異母弟もまた自らに課せられた信念を貫き、異母兄を救いたかっただけなのだと思っている。とてもとても純粋に。
しかしこの行為は推しにとって救いにはならなかった。
自分の考え、不遇の出自、人生を肯定するには、さらに人を殺すことの罪悪感へのもっと強い理由が必要なのだと考えた。
そうすることで、自分の考えは肯定される。自分を祝福へと導き救うことができるのは自分しかいない、そうもがきながらも自らで泥臭くもみっともなくとも、後ろ指を指されようとも生きようとした。
その最中で出会ったアイヌ民族の偶像のような存在である娘の父親を殺した。
少女は初めて彼に出会った時、殺されかけていたところを「殺すな」と制止した。少女もまた、異母弟と同じく「不殺」の信条を持っていた。
この少女が、人を罪悪感に理由をつけて人を殺すことで、自らが犯してきた、母親、父親、そして異母弟を殺してもなんら罪悪感を抱かなかった同じ境地へと引き下ろそうとしていたのだ。
共通認識が自らを救う。彼はそう思っていたのかもしれない。
妾腹という異端であった彼が、皆と同じ境地に立つには、自分とは真逆の人間に自分と同じ感覚を持ってもらう他なかったのだろう。
彼は、きっと不殺の信条に勝つことはできないだろう。
だが自分の出自の不遇、半分は同じ血が流れているにも関わらず、愛情を受けた異母弟との差異。そんな自らが選ぶことのできない生まれに、中指を立てて否定し、文句を言うだけの存在ではなかった。彼は、自分で自分が救われる道を模索し、行動したのだ。
みっともなく、卑怯で、滑稽に映るであろう彼の言動は、さらにみっともなく生きている私にはとても美しく映った。
私は人を救うのは「死」しかないと思っていた。
人間なんぞが、人間を救えるはずはないと。「死」だけが、私の人生を救う唯一だと思っていた。
だがそこに選択肢がもう一つ追加された。
「死」と「自分」だ。
自分を肯定するために他者を陥れようと、汚れ役までこなした彼は、非道であるが、生をまっとうしようとしている。
彼のほうがよっぽど人間として生きている。道徳や倫理を超え、自分を救いに導こうと、傲慢に生きようとそいていたのだ。
こんな生き方があったとは。
きっと彼はこの先ロクな死に方をしないだろう。
もしかしたら来週でもう物語からは脱落してしまうかもしれない。
それでも私は彼の生き様を賞賛したい。
悪魔のように生きた彼を、私は「あなたのような人間がいてもおかしくない」と、肯定してあげたい。
醜く生きる者、生まれがすでに不遇であった者、現在不幸だと嘆く者すべてに、あなたの生き様は少しの希望を与えてくれたと(まだ死んじゃいないが)