「私」ってなんですか

他人に中にある「私」のイメージは、私の意識なんぞを無視して、自由に作られている。

それに対して私の意見を挟むことは野暮だとは思っている。

だってそれはもはや、相手の中にある「私」なので私が干渉することなどできない。相手がどういった「私」を作り上げているかなど、自由だ。創作は自由でなければならない。

 

だがどうやっても本来の「私」との差異は発生する。

極端に言えば、相手は私を「赤い」とイメージづけていても、実際の私は「黒」であったとする。

その差異はどう修正するのか。

私が「赤」を演じるしかないのだ。

確かに相手が私を「赤い」とイメージするにあたり、私の中にも「赤い」部分は多少存在していたのかもしれない。人間の性格は一色ではなく、グラデーションのようなもので、どの色が強くでているか、ということがその人のイメージを決定づける要因として現れていると思っている。

なので、私は黒を主体とした、黒→赤のグラデーションだったのかもしれない。その人の目には、私の赤い部分のみが都合がよかった、というだけの話なのだ。

 

人間はだいたいが自分にとって都合の良い情報を優先する。

話はまったく変わるが、昨日観てきた「映画刀剣乱舞」でこんな台詞があった。

「正しい歴史とはなんだ」

刀剣乱舞ブラウザゲームから派生したコンテンツで、紅白歌合戦で初めて存在を知った人も多いと思う。

テーマとして掲げられている「歴史を改変しようと目論む者たちから、正しい歴史を守る」の本題に切り込んだのが、今回実写化された映画だ。

実はゲーム内ですら、この歴史の改変を目論む者たちの正体は明らかにされていない。

ともすれば、正しい歴史を守ろうとしている我々プレイヤー側が、ほんとうに正しいことをしているのか?という疑問も浮かぶ。

「正しい」とは誰にとっての正しいなのか。

先の台詞は、映画での織田信長の台詞なのだが、天正に生きる織田信長にとっての正しい歴史と、2205年から来た正しい歴史を守ろうとする「刀剣男士」から見た正しい歴史。

それを判断できる者など、本来誰もいないのではないか?

その歴史が正しかったかどうかの判断というものは、後に生きる者たちの主観でしかないのではなかろうか。

天正に生きる織田信長にとって、本能寺で自害する歴史を「正しい」と判断できる人間など、ほんとうは誰もいないのだ。それが「正しかった」と肯定したいのは、織田信長の死が自分の得になった者たちだけではないだろうか。

 

話がめちゃくちゃ逸れたが、それが本来そうあるべき、という結論は、「そっちの方が自分に都合がいいから」という解釈でしかないのかもしれない。

 

だから私が本来の「黒」であるより「赤」であったほうが、その人にとって好都合なのだ。本来の私の色など、どうだっていいのだ。その人にとって「黒」である私は不都合だと判断されたのだから。

 

そうやって他人が持つ私のイメージにできるだけ添うように生きてきた。

差異を修正するのが面倒だからだ。

本来の「私」である、いわば私の「史実」を都合のいいように修正しようとしている者がいたとしても、私はそれをどうすることもできない。というより、しようとはしない。

怖いから。

相手が「黒」である私に絶望するのが怖いのかもしれない。

もしかすると「正しい私」、「本来の私」なんてどこにも存在しないのかもしれない。

もう「私」は誰かの意識のなかでしか存在しない、ただの分子の集合体でしかないのかもしれない。

 

 

(とうらぶ知らない方でも楽しめる、歴史エンターテイメントであり、歴史ミステリー。史実とは現代の私たちにとってなんなのか。そしてその時代を生きた武将にとってなんなのかを考えさせられる一本。刀剣男士たちの圧巻のアクションも目が離せない)


「映画刀剣乱舞」特報