人をやめる努力
いつからかは忘れたが、人でいることの努力をやめる方向にシフトした。
完全にやめるのではなく、徐々に。今までフルパワーにブーストをかけてエンジンフルスロットルな上にトランザム!で人の形を保ってきたが、限界を超えるのをやめた。
やめたと言うより、よる年波には勝てなかった。体力的な問題が大きい。
あとは「そこまで頑張る必要があるのか?」と客観視するようになった。
常にゼロか百かの極端な思考で行動し後悔してきた。自分をより客観視することで、解離してしまったが(幽体離脱してるような感覚で自分を見てる)もう1人の自分が「や、別にそれやらなくても死なねーだろ」と言ってくれるようになった。
心身共に前よりは楽になったが、元々社会性がない人間がこれにより、今までなんとかこなしてきた人間としての形を保つことが難しくなった。
まず電話に出られない。
知らない番号からの電話が恐ろしくてたまらないのだ。
だって、相手が誰だかわからないのに、向こうはこちらを認知しコンタクトを取ろうとしている。それに対し、何の前知識もなく通話ボタンを押す勇気はない。
コナンでいうところの、犯人のよあな黒影の人物が私に歩み寄ってきていると考えると怯えてしまう。
今日は3回も知らない番号からの電話に「もうやめてくれ。ほっといてくれ」となって、iPhoneを機内モードにし布団かぶって寝た。
知らない番号からの電話に警戒する気持ちがある人は珍しくないとは思う。ただ私はその警戒心が異常なのだ。
その人物がなんの用があって私の私生活に介入してこようとしているのか。目的もわからぬまま、見知らぬ人物と脱ぎ捨てた社会性をまた身につけて取り繕う気力がない。
隙あらば私は社会性を脱ぎ捨てる。人間の形を保つことは、私にとって中世の兵士の鎧を身につけているようなものだ。あんな重くて動きにくそうなもの、四六時中纏っていられない。
帰宅し、着替えたら私は社会性の鎧を脱ぎ捨てる。もうプライベートまで努力したくない。しなくても良い。そうして何かにつけて言い訳をして、私は自分を甘やかす。
時に解離した私は激しく私を叱咤することもあり、どんどん落ち込むこともある。
しかし今まで必死に食い下がろうとしていた「無理」を手放すことで、私はコミュニケーション力を過剰に発揮することをやめ、適度に塩対応を覚え、極力ストレスを減らす方向で今生活している。
これが功を奏しているのかどうかはわからない。
社会的にはだめだろう。
私が私を居心地の良い場所へと導くことは、社会とは反比例するのだ。
どんどん私な人ではなくなっていくのだろう。私が生きやすい世界はどこにあるのだろうか。