永遠にヒエラルキーに翻弄される
学校でのスクールカースト。これはもう避けては通れない、どちらかと言うとあって当たり前の仕組み。だと思っている。
しかし社会にでたら、自分の所属するコミュニティをある程度自由に選ぶことができる。そして、その中ではみな、同じ穴のムジナとして、対等でいられる。そう思っていた。
私は今、数年ぶりに二次創作活動を再開している。
以前活動していた時は、まだ個人サイトが主流の時代で、フェイドアウトする頃にpixivやTwitterへと活動の場が代替わりしていったあたり。
そして今、個人サイトはほぼ消滅し、作品投稿はTwitter→pixivの順序で行われることがメジャーになっている。
私はとある作品にどハマりし、Twitterで専用アカウントまで作った。
数年ぶりに、二次創作小説を書くまでに至り、時が止まっていたpixivのアカウントもそれに伴い更新し始めた。
まずまずの手応えがあった。
だが、私が足を突っ込んだ時、ある理由で作品のファンが急増した。他ジャンルから移ってきた同人作家もそれなりの数で、一気にそのジャンルは旬ジャンルと化した。
それ自体は、素敵な作品が増え、喜んだ。
しかししばらくして、Twitterの専用アカウントを見ているうちに違和感というか、むず痒い気持ちになった。
元々そのジャンルで活動していた、いわゆる古参の方達と、新規のコミュ力やセンスが抜群な作家との交流が一気に加速した。
オフ会を通して。
互いにフォローし合っている、言わば「上手い人達」は、普段からリプライで親しくし、オフ会でさらに親交を深めていた。
私はイベントで本を出せるほどの人気はなく、自分の性癖や趣向を文章として吐き出す趣味、と言える程度だ。
だが、それでも私も創作する側にいる。
なんだか好きな絵師のイラストを見たいがためにフォローしていたはずが、その人たちの交流を見せられ疎外感が生まれるはめになった。
自分がその輪の中に入れないことへの不満よりも、交流を見せつけられるTwitterの仕様に、なんとかならないものか。と頭をもたげた。
そして、こんな趣味にまでヒエラルキーが存在することに、がっかりした。
はやり作品という成果を披露する趣味は、その出来具合で評価が決まり、階級が生まれるのは仕方の無いことなのだろうか。
私は割と自分の書いた作品は好きだ。
それもそのはず、自分の趣向を好きなように詰め込んでいるから、自分が一番読みたいものができあがる。文章は拙いが、それでも好みの内容なのは間違いない。
ただそれだけなのに、階級の上位にいる人達だけが得られる交流。それを目にする度、私はそこに参加できるほどの技術を持ち合わせていない人間なんだと、思い知らされる。
もう眠くなってきたので、身勝手に締めるが、一体どういう気持ちで二次創作、同人活動を楽しめばいいのか。
好きなカップリングの好みの絵柄やストーリーの作品を目にしたい。そして私も私なりに作品を綴りたい。
この二つの欲求があるからいけないのか。
ひたすら眺めるか、ひたすら書くか。どちらかしかないのだろうか。
ヒエラルキーの最下層でも楽しめる方法はないのだろうか。