同人活動、横のつながり

昨夜(今朝方?)の眠るためのアウトプット作業で書いた続き。

 

今日遊んだ友人も、密かに二次創作活動を再開していたことから、昨日のブログでの話になった。

友人も同じような意見だった。

私たち、個人サイト時代の人間は、やはり溢れる妄想を具現化する作業に重きを置いている。

言わば、長いタイムラグを経て如実に評価が数値化されるここ数年の二次創作界隈に、違和感を覚えている。

というか、たぶん馴染めないのだ。浦島太郎状態である。

 

果たして私たちは、それでも横の繋がりを求めているのか。それを指を咥えて見ている立場に耐えられず、過去の遺物を引きずっているに過ぎないのか。

それもひとつの要因になり得ているかもしれない。

妬ましい。そんな気持ちがないわけではない。

ジャンル内の上層にいる同人作家たちが、そのスキル故に繋がりを得られていること、それが上層部の仲間入りを果たしたという称号のように、目に映るのだ。

横の繋がりを得た同人作家たち。なんとかその仲間に入りたいと媚を売るような発言(に見える)をする、消費する側の人間。

Twitter上では、そんなやり取りが時たま視界に入る。それを心のフィルターをかけ、見て見ぬふりをできるのなら。そうしたやり取りを「ふーん」と流すことができたのならと思う。

そして、そういうふうに自分を仕向けなければ、せっかくの専用アカウント内ですら楽しめないという現状。

一体私は何を楽しみに、専用アカウントを作り、それを眺めるのか。

それがわからなくなりつつある。

 

そもそもTwitterは人と繋がるためのツールではないと、前にTwitter運営が掲示していたように思う。(実際はやれフォローしろだなんだと促してくるが)

本来Twitterは、自分の脳内をアウトプットするだけのツールだったように思える。

それが今や、交流目的のツールと化している。

実際に私もTwitterで繋がった人達と、交流を持ち、プライベートでも仲良くさせていただいてる方もいる。

だがそれは、ごく稀であり、奇跡のような合致があったからにすぎない。いつの間にかそういった関係になっていた、という流れだ。

 

もしも万が一、自分が即売会にサークル参加することを想像してみた。

元々繋がりのあるサークル参加者たちが、仲良さげに挨拶や会話を交わしている中、スペースで口を閉じ、やりとりを聞き流す環境が思い描かれた。

pixivやTwitterで、そのジャンルの大手の目に触れ、評価されなければ居場所がないといった状況が想像できた。

 

かといって、その仕組みを打破することなど到底無理だろう。

どこかで割り切り、アンテナを折る行為をする必要がある。

ここまで考慮しなければならないのだろうか。折り合いをつけて楽しむ。なぜ手放しで楽しめないのだろうか。

この先一体二次創作、同人活動はどういった方向へ進むのだろう。

私はそれを見届けるまで続けているのだろうか。完全な消費する側になるまで、この葛藤は続くのだろうか。