生活の質に惨めさを感じる腐女子たち
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これ、私を含め少数の腐女子たちが、程度は違えど感じている問題かと思っていた。
けれど某掲示板で見かけたスレで、生活の質に悩む腐女子たちが多いことに驚いた。
彼女らもまた、私同様、Twitterで垣間見える同人女の私生活スペックに惨めさを感じていた。
もっと酷いジャンルだと、ブランドバッグは当たり前。オタク活動の一環にも関わらず、端的な言葉を用いれば「セレブ」ぶりをアピールしているとか。
いや、セレブは言い過ぎかもしれないが、我々のような「普通」の生活水準に達していない人間からすると、ブランドバッグを購入できるというだけで十分セレブリティーである。
普段の生活、その日の命を繋ぐだけでも精一杯の状況で、満足いくまでソシャゲに課金。服を新調する余裕も、美容に大枚をはたく余裕もない生活のなかで、身なりに金をかけ更には趣味に金を突っ込む。
そんな私生活を何気なく投稿しているのか。明らかにマウントをとっているのか。どちらにせよ、自分が今置かれている状況に惨めさを感じずにはいられない。
生活の質の差を、生きがいとも言える趣味の世界で見せ付けられる。
じゃあ私たちはどこに居場所を求めればいいのか。
辛い現実から逃げるための拠り所までも、輝いた現実を持つ者たちに侵食されてしまった。
私は思ったのだ。
評価が顕著になったSNSで、それを気にせずにいられる人間は、他に居場所があるのだ。
別に趣味だし。と、評価にそこまで固執することなく、同じ生活レベルの者たちと交流することができるのだ。
そして自分がいかに底辺かを見せつけられ、実感させられる。
同じオタク同士、同じジャンル、カップリングが好きな者同士。さらにそこに、同じ生活水準。という共通項でふるいにかけられる。
生活水準って、オタク活動においてそこまで大事か?
昔だったらそう言えたかもしれない。
もう一様に「オタク」で括られる時代は終わったのだ。
昔はその人がどんな生活をしていて、どんな職についていて、既婚者なのかどうかの情報なんて入って来にくかった。
だがSNSの発達により、容易に自分のスペックを織り込ませることが可能になった。
オタクだけど、リアルもちゃんと充実している私合戦が始まったのだ。
もうオタクであること、同人作家であること以上に、私生活レベルまでも精査されるのだ。
そして生まれる「余裕」
たとえ同人活動をやめたとしても、居場所がある人間の余裕と、辛い現実の駆け込み寺として興じている者との差。
互いに仲良くできるわけがない。
まず話が合わない。
そして趣味の中で、自分が一般的に劣っていると思わされる。
なにこれつらい。
そんな腐女子たちの苦痛が綴られていた。
作品が劣っていることを卑下することのない生活の余裕もない。自分が人並みにできることの唯一だと思って打ち込んできたものが、人並み以上の生活レベルの人間との格差を見せ付けられるだなんて・・・。
もう私には何もない。
ほんとうにそう感じてしまうだけの破壊力があった。
それは私がいたジャンルだけの話ではなかった。
もちろん全ての腐女子、同人活動をする人がそういった格差に悩んでいるとも限らない。
だがあのスレがここ最近立てられたものだということは、そういった生活の質に自分の置かれている現状を浮き彫りにさせられた腐女子たちが増えてきたという、SNSがもたらした問題である。
なんだか現代社会の闇の縮図のようにも思える。
一度躓いた人生は、今後どうあがいても逆転できない。
精神疾患、障害、毒親、その毒親の介護問題、空白の職歴で弾かれる正規雇用・・・自分で選んでもいないステータスに人生を決められてしまう社会。そして一度でもその沼に落ちてしまったら、普通レベルにのし上がることさえ不可能だという、絶望的な現状が驚く程多い。そして彼女らは早々に死を願う。
水面下にある貧困のリアルが、あのスレにはあった。
私もまさか同人活動でそんなことを思い知らされるとは思わなかった。
せめて、好きなものを書く(描く)ことだけは手放したくない。それしかないのだから。