左利きと発達障害
発達障害は左利きに似ている。
日常生活が不便な点において。
世の中は右利きを基準に作られている。
はさみ、改札口、お玉、ガスコンロ・・・。生活に関するものは、マジョリティである右利き仕様だ。
左利きの人は、はさみを使う際、改札口を通る際、その不便さに少なからずストレスを感じると思う。
はさみは左利き用もあるが、それもわざわざ「左利き用」を探して選ばなければならない。何の気なしに購入したり、誰かから借りることができない。不自由さがある。
その不便さは、生まれた時からのもので多くは「慣れ」で補っているのかもしれない。だって、しょうがないから。左利き用の改札口を作ってくれとうったえたところで、採用されないだろう。これまでがそうだったから。諦めて、利き手とは逆の手で交通系カードをかざすことに「慣れ」なければいけないのだ。
この「慣れ」は、ほんとうに無意識に身体が動く程度の「慣れ」なのか。
私は右利きだが、毎度、不便さにストレスを感じることがまったくないとは言えない気がする。
これを発達障害に置き換えると、社会に生きづらさを感じている私たちが、生きやすい社会になるには、今現在、生きづらさを感じている人たち。いわゆるマジョリティの人間が生きにくい社会になるわけだ。
絶望的な話だが、マイノリティ側の人間に有利な社会というのは、大多数を犠牲にすることだと思う。
世の中が、左利きに有利なつくりに変わったら、それでも右利きの人間は適応できるだろうか。左利きの人たちが生きやすい世の中いなってよかったと思えるだろうか。
マジョリティに優位な社会を崩さず、マイノリティ側にも手を差し伸べるには、せめて左利き用のはさみを作ることしかできないのだ。世の中のはさみを左利き用をメインにすることはできないのだ。
発達障害者は、社会の不便さにストレスを感じながら、左利き用のはさみが発売されたら感謝する。左利きなばかりに、便利な世の中になったと喜ばなければならない。
私たちは生きているだけで、ストレスなく暮らせることを感謝せざるを得ないのだろうか。普通の人が感じることのない、あらゆる不便さが解消されただけで、それを喜ばなければならないのか。いや、喜んだ姿を見せなければいけないのか。生きやすい世の中を望まなければ、生きることにずっと、死ぬまで苦しまなければいけないのだろうか。
なんなんだよ。