自分の家に自分以外の誰かがいるのが怖い

これね、泥棒とかストーカーの意味ではないの。

「家に帰ると家族が待っている」
よく暖房器具とか住宅のCMで耳にするキャッチフレーズ。
これがものすごく恐ろしい。
私にとっては帰宅したら知らない人がいた。くらいに恐ろしい。

だって、仮に一人暮らしで自分家なのに、世帯主自分なのに、アパートの契約者自分なのに。
他の人間が家に居るって、それ帰る意味ある?とまで思ってしまうのだ。

だって、帰宅して誰かがいたら、いつ休むの?安寧はどこにあるの?職場や学校で、それなりに通用する社会性のある人間の着ぐるみをまとって、やっとのこと帰宅したら、また家族の一員という役割を演じなきゃいけない。

これが普通の人にとっては理解できないんだと気づいた時、皆は役割を演じることに抵抗がないのかと不思議に思った。

私は家族の発する音=騒音と捉えてしまう。
誰かがいる家はもう自分の家ではない。
そこも小さな社会であり、私は社会の中の一員として、また別の着ぐるみを着なければいけなくなる。

なぜ家族がいたら、あったかいとう表現なのかもわからない。そもそもあったかいってなんだ?空気感のことか?騒音と少しの緊張感がか?

こうやって考え出した時、同時に私は自分が異質なことにも気づく。
そして私はこの世界では非常に生きづらく、むしろ生きていくことが不可能ではないかとさえ思った。
この世界で生きていくには相応しくない。向いていないどころではない。適していない。不適切。そう、社会において不適切な人間なのだ。

だからといって死ぬのも容易ではない。
そう思うなら早く死ねよという意見はごもっともだが、ここまで生きることに向いていないと自覚して、生きることが辛いと感じていても、いざ自ら命を手放す瞬間は怖い。
痛い、苦しい、そしてそれは怖い。

生きることは継続的な恐怖。
死ぬことは一瞬の恐怖。
ゆるやかな恐怖の中で、一時的な恐怖は刃のように鋭い。
慢性的な痛みの中、痛烈な痛みが襲う。そんな感じだ。
ゆるやかな痛みから解放されるには、痛烈な痛みという壁を乗り越えなければならない。
どちらにしても恐怖に変わりはない。
この世に生を受けるとは、なんて恐ろしいことなのだ。

共存する悦びを感じられない人間は、生まれた時から地獄なのだ。