私は令和には行けなかった
平成から令和へと元号がかわり4日。
未だになんの実感も感慨も湧かない。
それどころか、この令和を祝おうという雰囲気が理解できない。お正月感覚と捉えればいいのか。
そもそも私のような普通以下の生活をしている人間にとっては、元号が変わろうが日々の苦しい生活が明日もあさっても続くだけ。
元号改正に伴い心機一転!…などという気持ちは微塵も起きず、ただ明日がくる。くりかえしの今日の中にいるだけだ。
結局、元号以外に何が変わったというのだ。人の意識は浮き足立ち、元号が代わったことにより何かがかわると、そんな無責任な期待に胸を躍らせているのか。
また世の中の陽気な雰囲気から取り残されてしまった。
一緒に楽しむという共感を得られないのは、やはり私が世間から弾かれた棄民だからなのだろうか。
お祝いムードの裏側で、平成から何も変わらない今日を生きている。
人の意識的な問題なのだろうけど、とてもそんな気分にはなれないのは、生活の質の差だろうか。同じ毎日をただ必死に這いつくばって生きるだけの私。今日を終えるだけで精一杯で、新元号を祝う余裕のない生活。
お祝いムードで浮かれている人達には、そんな私たちの存在など目の端にも止まらないだろう。世間からいない者とされた存在。いや、いない者と思いたい存在なのだろう。
そういった自分たちとは無関係な現実からは目を背けたい。
私たちのような存在は、一部のボランティアやNPO法人が支援し、ネットや新聞で事実を世に流してくれる。しかし、無関係の人間の目に止まることは、ほとんどないだろう。
こうして私は今も令和という時代の中に存在しているのかがあやふやになっている。
私は令和には行けなかった。
このお祝いムードに、そんな疎外感を抱いている。