認知行動療法を試してみたら、どうやっても「死」だけが救いだった
今日、たまたま銀行の待合椅子から眺めていたテレビで、認知行動療法に触れていた。
自宅でできる簡単な~と前置きがしてあり、問題点や解決策を書き出し、ひとつずつ紐解いていく、というような内容だった。
こんなもので今の私の辛い状況が緩和されるものなのか。
半信半疑で帰宅後、メモ帳になぜ、何が、私を「しんどい」たらしめているのかを書き出した。
「生きているのがつらい」
から始まり、なぜ生きているのがつらいのか。矢印の先に書き出す。
人間と関わるのがつらい。人と会話をした時の応対に頭の回転が追いつかずつらい。世間から弾かれているようで居場所がない・・・。
そんなことが溢れてくる。B6サイズのメモ帳が3ページ埋まった。
しかし、それらの具体的な解決策を考えた時、死ねば全部解決する。という結論しか浮かばなかった。
もう私は考えることすら放棄しているのかもしれない。
書き出した問題点も具体的ではないから、それに紐づく解決策というのが思い浮かばないのではないか。
なぜ、それらがつらいのか。もっと掘り下げる必要があるのは確かなのだが、考えようとすると頭に靄がかかったようになり、思考が停止してしまう。
ぼんやりとした不安や不満。
それらは全て実体もなく私を攻撃する。
不安や不満の正体を探ろうと自分を客観視するあまり、冷静になった自分が他人のように私をなじるのだ。
なじって、罵倒して、私のわずかな向上心や浮ついた気持ちを、こてんぱんに叩きのめす。私がボロボロになって立ち上がれなくなるまで、執拗に責め立てる。
おまえなんか誰にも期待されていない、おまえの創るものなど誰も興味がない。それなのに、創作を続けているなど馬鹿ばかしいと。
こうして私は自分に「生きていてはいけない人間」だとラベリングする。
今でもこうした行為が間違っているとは思えない。
自分を冷静に分析した結果、私には何もなく、生きていくことに不向きな人間に変わりはない。正しいジャッジメントだと思っている。
そしてこれが認知の歪みであることも同時に理解している。
しかしだめなのだ。
どうしても自分を評価する際、褒めてあげることができない。なぜなら褒めるべきところが自分で見つけられないから。
そうして行き着く先は「死」なのだ。
今の私になとっての救いは「死」しかない。
誰も私を救うことなどできない。そもそも救われるような、他人が私を救いたいと思えるような人間性がない。
それをわかっているから、自分からSOSを出せない。出し方もわからない。
例えば体調が悪い時、なんと言って相手に伝えればいいのかすら知らない。そういう文言を知らずに大人になってしまった。
これはたぶん、子供の頃から体調が悪い素振りを見せると母親に煙たがられたせいだ。
「頭が痛い、だから少し横にならせてほしい」
こういったことを言う勇気がない。というか、頭が痛くて休みたい時はこの言い方で相手に伝わるのか、不快にさせないかというのも怪しい。
「死」という究極の最終手段。
人生の電源をオフにしてしまえば、全ての苦しみはそこで終わる。強制終了という手段。
きっとそのほかにも方法はあるのだろう。
「死」に魅了されながらも、どこかでほかの方法はないかと模索している自分がいる。このままではいけないと。とんだ面倒な人間である。
死にたいならさっさと死ねばいい。
ほんとうに私もそう思う。
どうして死なないのか。まだ希望を捨てきれない理由すら、自分にも理解できない。単純に生存本能なのだろうか。
「死」に取り憑かれ、「死」に逃げようとしている私。
もうひとつの救いである、自分自身が抗っているのだろう。
ボロボロの私をかろうじて支えている「自分」
まるで老老介護のようで滑稽だ。
自分というこの小さな世界と物語。
それを救うのは「死」と「私」どちらなのだろう。