差別とどう生きていくか

東野圭吾「手紙」を読了した。

内容は、優秀な弟を大学へ進学させるために強盗殺人を犯した兄。

罪を犯したのは兄であり弟にはなんの落ち度もないのだが、世間は彼を「殺人犯の弟」とラベリングする。そのことで弟はいろいろな物を失い、苦しい人生を送ることになる。

弟がどんなに努力しようと、兄の罪が呪いのように彼を追ってくる。

 

ここで私が一番着目したのは「差別」だ。

殺人犯ではない弟にはなんの落ち度もない。しかし、世間は彼を危険な人間の血が流れているレッテルを貼ることで、自分自身の安全を守る。

これを「差別」と言えばそうだろう。

罪のない弟自身を無差別に受け入れることで、受け入れる側は心にある警戒心を押さえ込む必要がある。彼を差別しないことは、周りの人間のストレスをどうしても誘発してしまう。これでも「差別」はいけないことだと、真っ向から否定することはできるのか。

よく差別と区別は違うというが、私はどちらも同じことだと思う。

棲み分けることで自分を守る人間の本能、処世術としての当然の反応が「差別」ではないか。

 

私の大好きなアニメ「コードギアス反逆のルルーシュ」の一節「人間は生まれた時から差別されている」

私はよく「出生ガチャ」と呼んでいるのだが、人は生まれた時から親の地位、経済力、遺伝による個体差・・・など。その差別があるからこそ、人は切磋琢磨しより成長できるのだと言う。

差別が人間が成長するための原動力になるかどうかはわからない。むしろ生まれの不遇に幼い頃から悲観し生きる人もいるだろう。

等しく差別のない世界など、絶対にありえないのだ。

差別なく、弱者も強者も罪の有無も性別も年齢も生まれの境遇も民族や宗教も、なんの隔たりもない世界が存在できたとしたら、恐ろしいことではないだろうか。

慈悲深くどんな人間にも同じような優しさを施すことができるだろうか。それは、自分が持つ不快さを押し殺す行為にもなるのではないか。

では逆に差別なく無慈悲に他人を扱うことになればどうだろう。

 

差別のない世界は、人々が持つあらゆる他人に対して抱く感情を、極限までフラットにする必要があるのだ。いわば、差別のない世界とは、更地なのだ。

人の心を更地にし、他人に対し無関心でいることを徹底しなければ成し遂げられないと思う。

 

差別は緩和することはあれどなくなることはない。

差別を受ける人間に対し、同情することはできるが、自らの身を呈して手を差し伸べることはものすごく難しい。仮に手を差し伸べたことで、差し伸べた人間の周りの人がなんらかの差別なり誹謗中傷を受けるかもしれない。

だから皆、同情という盾の内側で傍観する。安全な場所から意見する。差別をした罪悪感を同情という免罪符にする。

 

では差別的な被害に遭った場合、それに対し自分に落ち度のない「手紙」の弟のような理不尽な差別に対しどう生きることが正解なのか。

模範解答などないのだ。

肉を切って骨を断つ。

そのような選択肢の中からどれかを選ぶほかないのだ。なぜなら社会、世間の目を変えることはできないから。個人が差別社会のなかで何を捨て、どれを選び、どう生きていくかを模索するしかない。

そういった感想を抱いた作品だった。

 

差別する社会を恨んでいる場合ではない。

そんな社会の中で、風穴や僅かな光を見つけることのほうがよっぽど合理的だと思ったのだ。

理不尽な不幸に対して苦労を強いられることは悔しい。

なぜ私がこんな・・・俺のせいではないのに・・・。

誰かのせいで不本意な生活を強いられることは、出生から始まっているのだ。

望まれない親の元、望まない人生に突然、自分の意思が一切介入することなくスタートテープが切られる。

走ることに優れた足や靴が最初から与えられてテープを切る者。体力が他の人間よりもある者。給水ポイントがなぜかやたら設けられている者。

人生マラソンに強引に参加させられた私たちに、ランダムにスキルが振り分けられた状態。それがこの社会であり、出生自体がすでに理不尽極まりない。

 

差別を真っ向から全否定する人、今差別に苦しんでいる人にぜひ読んで欲しい作品。

手紙 (文春文庫)