発達障害者、幸せですか?

正直、発達障害者として生きてて、幸せだと思ったことは一度もない。

幸せか不幸せかの判断材料に発達障害が起因しているかどうかは検証のしようがないので、出生ガチャなのか生育環境なのか元々の性格に由来してるのかの議論はしない。

なぜ障害が私の人生の幸せバロメーターに関わるのかの話は、まだ記憶に新しい障害者施設での無差別殺人事件をベースに語る。

 

加害者の思想は置いといて、被害者遺族が涙ながらに記した手記に、我が子は障害者でも楽しく幸せに生きていた。というようなことが書かれていた。

障害があっても幸せな人もいる。

だから障害者だからといって、生きるに値しないと無遠慮に命を奪うことは許されない。これは障害者、健常者関係なくそうである。

 

しかし、ここに、障害者として生きてきて幸せだとか思ったことは一度もない人間もいる。それはクローズアップされることはないのだ。

 

この、障害者でも幸せ論が、健常者だけではなく世間全体に認知されてしまうことに、私は「なんだかな〜」と、とてもモヤッとした気持ちになる。

障害者でも幸せな人もいることは事実だが、逆の立場の人間は亡きものにされてしまう風潮。

障害者だって、明るく楽しい人生がある!

んなことあるかい。

生きづらさを感じている障害者など、まるでいないかのように映す。

 

それはきっと、無関係な健常者がそうであってほしいと願うからなのだろう。

障害をもっていても楽しく生きている。そうでなければ健常者はなんらかの手助けをしなければいかないのではないか?という無言の責任感に苛まれるからだ。

「障害者でも幸せなんだよね!じゃあ俺ら私たち、別に何もしなくていいよね!」

という、安心感と責任から逃れる理由として、障害をもっていても幸せに生きられる、生きているロールモデルしか目にしたくないし、耳にしたくないのだろう。

 

例えば、めちゃくちゃに疲れて電車に乗り込み、幸運にも座席を確保できたとしよう。

しかし次の駅で老人が乗ってきた。老人は疲れ果てて座るその人の隣に立った。

席を譲った方がいいのかな。でも自分だってもう立ち上がることができないくらいに疲弊してる。

席を譲らなければ罪悪感に苛まれる。しかし譲りたくはない。

そこでもし老人が、はちゃめちゃに元気いっぱいで足腰超健康です!と口にする、もしくはありえないがそういったラベリングがされていたらどうだろう。

「元気なら自分が席を譲らなくても問題ないよね!よかった」

と、安堵して降車するまで座席で休むことができる。

 

皆、できることなら無関係でいたいから、障害者が幸せであってほしいのだ。

差別だって、実際に自分とは縁のないネットの中の出来事ならいくらでも良心的なことが言えるのだ。

 

いつぞやの台風で、ホームレスが避難所から受け入れを拒否された件。

あれも、避難所を叩いている人間は、おそらくその避難所とは無関係な屋根のある場所から、そしてSNSという媒体を通して呟いていた。

だって自分はその避難所に避難しているわけじゃないから。

もしこれが仮に同じ避難所にいたら、同じことが言えただろうか。

自分の隣でホームレスが寝ることになったら、嫌な顔ひとつせずに夜を過ごせただろうか。

 

無関係な場所からなら、いくらでも独善性を語ることができる。

それを批難するつもりもないし、むしろ人間らしいとすら思う。人間のもつ、防衛本能だから。

 

話が逸れたが、障害者は殺されてもいい対象ではない。

ただ私は、障害を持って生きていくのは辛すぎる。生まれてきたくもなかった。

発達障害に限って言えば、原因は未だはっきりとはしていないが、できれば遺伝子検査などで障害児を産む可能性のある人は、出産を諦めてほしいとすら思ってる。その遺伝子検査も無料で行えるようになってほしいし、義務付けてほしい。

障害をもって生まれた子供が幸せになるか不幸せになるか、親には見通せるものではないが、私は可能性があったのなら産まないでほしかった。ほんとうに、切実にそう思っている障害者もいるということを知ってもらいたい。