自分には何もないと思っている人間が、アニメ「モブサイコ100」を全話視聴した感想
最初はほんとうになんとなく、ネトフリでおすすめされてるし、とりあえず見てみるか。という軽い気持ちだった。
OPが凝っててかっこいいなーとか、超能力ギャグアニメなのかとも思ってた。
しかしまえ情報として、Twitterに流れてくるモブサイ二次創作に、ほの暗い印象があった。これはただのギャグアニメではなさそうだ。そんな予感の正体がわかってきたのが、テルとの戦闘シーンからだ。
「超能力は個性のひとつにすぎない」
超能力なんて、凡人にはとうてい与えられないハイパーな能力も、足が速いだ体臭がきついだの、個性のひとつと同列だと言ってのけたのだ。
どんな優れた能力を持っている人間が、現実社会にもたくさんいる。でも彼ら彼女らは総じてただの「人間」に過ぎないのだ。だからそれがなんなのだと。ちょっと人より優れた能力があるからって、調子こいていい理由にはならないぞ、と。(かなり主観でざっくり書いてます)
そして二期。霊玄のインチキ商法がテレビで明るみになり、世間から大バッシングを受けます。
ネットリンチのかっこうの的になったわけだ。
そして霊玄が「霊とか相談所」などと、霊能力もない凡人がなぜそんな商売を始めたかの経緯が回想シーンとして流れる。
彼は「何者か」になりたかったのだ。
容量よく社会に溶け込んでいるのに飽き、そこから頭ひとつでも飛び出した「何者か」になりたかった。そのためならなんでもよかったのだ。たまたま目に付いた雑誌の裏表紙。そこに掲載されていた怪しげな数珠の広告。
「何者かに憧れる人間」にとってのきっかけなんて「あ、これくらいなら自分にもできるかも」なのだ。言ってしまえばどんな生業に対してもなめてかかってるのだ。
「何者か」になれるためには、才能と努力が不可欠だが、漠然と「何者か」に憧れる人間には、才能はおろか努力する過程がすんげーーーーーめんどくさい。だってそんな「何者か」になりたいと気づいたときには、「何者か」はものすごく先、もう姿が見えなくなるくらい先にいるんだもん。
ちょっと走ったくらいじゃ到底追いつけないほど先に。
じゃあ適当なところで近道しちゃおう。
そんな小手先の努力でどうにかできる、自分にできる範囲内のことで手を打とうとしてしまうわけです。
霊玄も、エセ霊能力者を語る上で、まったく努力をしていなかったわけではなかった。巧みな話術とマッサージでなんとかそれらしいことを続けてきた。
だが所詮「エセ」なのだ。
それが何か特別な力があってこそではないと、自分でもわかっている。だからいまいち達成感は得られなかった。
そこに本物の超能力をもったモブが現れる。
本格的な除霊を行うこと、モブに超能力の使い方を教え、師匠として慕われることでちょっとはしゃいでた。が、インチキだと見抜かれ、やっぱり自分には何もなかったんだと改めて痛感させられることになった。
そういった物語のなかで、見えてきたのは、個々の優れた能力よりも大事なのは「人間力」。
超能力だろうがなんだろうが、ほんとうに社会で必要とされるのは人間力なのだ。超能力なんてチートなもんがあっても、生きていく上で人との関わり合いがなければ孤立してしまうし、結局人間社会なんてそんなんで飯は食えないし、孤立するだけ。仲間も得られない。孤立した人間は、自分を孤立させた世界を恨むようになってしまう。どんなに優れた能力があっても、社会や人とつながることができなければ、人間としての価値は超能力でもブーストできないのだと知った。
というか、やっぱ結局そこなんだよなーと(コミュ障に追い打ちをかけられた結果に)
けど、能力の優劣って、そんなもんで無意味にもなってしまうんだなてっところが、少し救いだった。
何者でもないけど、何者かになる必要なんてないのかもな。
モブサイの何がおもしろいかってね、超能力をもつモブに、凡人の霊玄がいろいろと大人として意見するところなんだよ。
ヤムチャが悟空に指南するような構図がね、なんか現実的というか、能力だけでは社会じゃ生きられねーぞ。って、子供達へのアンサーのような。
ユーチューバーになりたいとか言ってる子供達にもね、突飛なことをやってる人たちだけがすごいんじゃないんだぞ、と教えてくれる。そんな霊玄も「何者か」になりたかった人間の一人で、完璧な人間なんてそうそういやしないんだなって、ちょっと安心できたアニメでした。