何もない私がデレマス23話を語る
以下ネタバレ含みます。
デレマス23話、前話でスランプに陥った島村卯月が活動を休止し、自主レッスンに励むことからスタート。
シンデレラプロジェクトに参加する以前から通っていたレッスンスタジオなのだろう。相変わらずほの暗く、レッスンをするには照明が足りないと思える。足りないどころか、これ電気ついてないよね?
大きな窓から差す夕暮れ時の淡いオレンジ色だけが、スタジオ内を心許なく照らす。スタジオの床に、卯月の影が長く伸びる。そんな中ひとり、同じステップをひたすら卯月は繰り返している。
見た事のない人は想像してほしい。
夕日さすレッスンスタジオでひとり、同じステップを何度も何度も繰り返すアイドルを。そのシーンだけで彼女がアイドルというものに葛藤し、ひたすらに自分の「個」について模索しているのがわかる。
ほかのメンバーはそれぞれに別の活動に踏み出している中、卯月は自分にはほかのメンバーのような何かに特化したものがないと感じていた。
それ故に、初心に戻り、ひたすらにレッスンを繰り返せば自分に足りないものが何かを掴める気がする。きっとそうだと、すがる思いでステップを踏み続ける。レッスンを頑張れば、新たな自分を手に入れられる。
彼女の口癖でもある「頑張ります」。これが彼女を縛り付けていた。頑張れば報われる。自分に足りないのは努力なのだと。
しかし努力でカバーできるものにも限度がある。酷い言い方をすれば、卯月のやっている「努力」は効率が悪く、空回りだ。ただ同じステップを繰り返していただけでは、成果は生まれない。卯月が望んでいるのは、反芻することで定着できる成果とは別のものだからだ。
終盤、卯月のセリフが私が吐露したものと全く同じだったことに、感情を揺さぶられた。
「私にはなんにもない」
そう、私にもなんにもない。他人に自慢できるようなものが何一つとしてない。昔から常々私の頭の中にあり、コンプレックスのひとつでもあったこの言葉を卯月が涙ながらに口にした。
実際に卯月には、何もないわけではない。愛らしい容姿、レッスンを苦とも思わない向上心。しかしそれはほかのアイドルを含めた中で見ると汎用なものだと、卯月は自負していた。
卯月はこうも続けた「笑顔なら誰にでもできる」
卯月を褒める言葉として「笑顔」をプロデューサーが用いたことがあった。卯月はそれを自分の強みとして常に笑顔でいることを心がけていたが、それが今の彼女には汎用的でなんの個性もない自分に対しての慰めのように捉えられていたのだろう。
「なんにもない」は恐ろしい呪いの言葉なのだ。
アイドルに限らず、今アイドルでもなんでもない私の周りにも、多様な個性を持つ人間が溢れている。それを日常的に突きつけられているのがTwitterだ。
それを目にするのは、私が惹かれた個性あるアカウントをフォローしたからなのだが、それ故に毎日毎日、Twitterを開けば自然と自分にはない個性を突きつけられる結果となる。
憧れや素晴らしい作品に触れたいという思いは、いつしか同じ人間なのななぜこうも差が生まれてしまうのかと、自分へと矛先が向けられた。
この人達に比べて、私にはなんにもない。そう気づいてしまった時、私には突出したものがひとつもない、なのに承認欲求だけは人一倍あるというアンバランスな人間が出来上がっていた。要は武器がないのだ。他人に認めてもらえるような武器を持たず、多様な芸術性に特化し、賞賛される人達の中で埋もれていくだけの日々。「認められない」は、私にとって存続していないも同然なのだ。他人に認められることで、私は存在を肯定できる。他人に存在価値を委ねるのは傲慢だと思いながらも、その考えを払拭できずに今に至る。
特技がないから承認欲求が生まれるのかもしれない。
認められたことがないから、認められたいともがくのかもしれない。
その葛藤の中で、島村卯月がどう立ち直っていくのか。はたまたこのまま「切り捨てろ」とプロデューサーに冷たく言い放った常務(CV 田中敦子)の言う通りにしなければならないのか。
24話へ期待と不安が募る。
どうでもいいが、常務の声が田中敦子のおかげで、一言一言が妙に重い。
一瞬、これ、なんのアニメだっけ?と思ってしまうのは、私が攻殻機動隊の頃から田中敦子のファンだからかもしれない。
「切り捨てろ」が物理的な意味を持って届いてしまったのも、そのせいかと思われる。