社会的弱者は社会から必要とされていない

職場で発達障害精神疾患をクローズドしているのだが、だからこそ聞ける、現場の率直な意見。

健常者が障害や疾患持ちの同僚に対し、どう思っているかの本音は「爆弾を抱えている」「突然倒れられると困る」といった、正直、業務に関するスキル以前に、一緒に働く上では面倒この上ない。というのが、率直なところだそうだ。

 

たしかにその意見には納得せざるを得ない。

だって、何が悲しくて健常者が割りを食わねばならぬのか。

コンスタントに業務をこなせる人間を必要としているのだ。自分の業務に、障害者や疾患持ちの世話や気遣いがプラスされても、お給料には反映されないし、なにもメリットはない。

 

何が言いたいかって、実際に発達障害者や精神疾患者と働く者にとっての率直な意見が反映されず、障害者にも人権が〜とか、社会的弱者に優しい世界は皆にも優しいだとか、耳障りのいい言葉を並べているのを見聞きすると、はァ??となる。

空想?妄想?

実際に同じ職場に居合わせたことある?

現場の人間はそんなこと微塵も思ってねーぞ?

急に休んだり早退したり、割と厄介だと思ってるぞ?

 

でもそんなことをおおっぴらに言ったらたぶん叩かれる。そんな雰囲気に腹が立つ。

優しさに包まれたような意見は声高に言えるけど、実情を語るとそれは非人道的だとか薄情だとか言われる社会全体の雰囲気に、障害の当事者である私はイラっとする。

 

何が社会的弱者にも優しい世界だよ。

実際、優しくできる人間なんていくらいるんだよ。

ぶっちゃけ関わりたくはないと思ってるのが現実なのに、それは口にしてはいけないことのように葬られる。

私は見聞きしてきたよ。

社会的弱者がそうでないものからどう思われているかを。

いつ発症するかわからない爆弾を抱えた人間と働くことへの愚痴を聞かされたよ。

「ああやっぱり、現実はそうだよね」

って思ったよ。

社会的弱者に優しい世界なんて、机上論だって。

無関係な場所にいる人間の理想でしかないんだって。

 

だからはっきり言えよと思う。

自分が良い人、理解者だと思われたいがための偽善的な言葉で、障害者に希望を持たせんなよと。

 

そんな社会は残酷ではない。

自分の身を守り、心地よく暮らすために手のかかる人間からは無関係な場所で生きたいと願うことは、非情でもなんでもない。

その感情もまた正しい。

だから私はぞんざいに扱われようが、仕方の無いことだと思う。

逆の立場だったら同じことを思うから。

 

整備された環境で生きることこそ、ストレスなく暮らせる。

 

それを知ってるから、自分はどんなに汎用型のロールモデルを真似ても月8000円も投薬に費やしても、健常者としては生きられない、社会的弱者であることを、社会から弾かれた人間であることを認めて生きている。

 

もうみんな、自分が善人であることを主張したいがための耳障りのいい言葉なんてやめろ。

私は知ってるからな、社会で私のような人間が、どう思われてるかを。

発達障害者、幸せですか?

正直、発達障害者として生きてて、幸せだと思ったことは一度もない。

幸せか不幸せかの判断材料に発達障害が起因しているかどうかは検証のしようがないので、出生ガチャなのか生育環境なのか元々の性格に由来してるのかの議論はしない。

なぜ障害が私の人生の幸せバロメーターに関わるのかの話は、まだ記憶に新しい障害者施設での無差別殺人事件をベースに語る。

 

加害者の思想は置いといて、被害者遺族が涙ながらに記した手記に、我が子は障害者でも楽しく幸せに生きていた。というようなことが書かれていた。

障害があっても幸せな人もいる。

だから障害者だからといって、生きるに値しないと無遠慮に命を奪うことは許されない。これは障害者、健常者関係なくそうである。

 

しかし、ここに、障害者として生きてきて幸せだとか思ったことは一度もない人間もいる。それはクローズアップされることはないのだ。

 

この、障害者でも幸せ論が、健常者だけではなく世間全体に認知されてしまうことに、私は「なんだかな〜」と、とてもモヤッとした気持ちになる。

障害者でも幸せな人もいることは事実だが、逆の立場の人間は亡きものにされてしまう風潮。

障害者だって、明るく楽しい人生がある!

んなことあるかい。

生きづらさを感じている障害者など、まるでいないかのように映す。

 

それはきっと、無関係な健常者がそうであってほしいと願うからなのだろう。

障害をもっていても楽しく生きている。そうでなければ健常者はなんらかの手助けをしなければいかないのではないか?という無言の責任感に苛まれるからだ。

「障害者でも幸せなんだよね!じゃあ俺ら私たち、別に何もしなくていいよね!」

という、安心感と責任から逃れる理由として、障害をもっていても幸せに生きられる、生きているロールモデルしか目にしたくないし、耳にしたくないのだろう。

 

例えば、めちゃくちゃに疲れて電車に乗り込み、幸運にも座席を確保できたとしよう。

しかし次の駅で老人が乗ってきた。老人は疲れ果てて座るその人の隣に立った。

席を譲った方がいいのかな。でも自分だってもう立ち上がることができないくらいに疲弊してる。

席を譲らなければ罪悪感に苛まれる。しかし譲りたくはない。

そこでもし老人が、はちゃめちゃに元気いっぱいで足腰超健康です!と口にする、もしくはありえないがそういったラベリングがされていたらどうだろう。

「元気なら自分が席を譲らなくても問題ないよね!よかった」

と、安堵して降車するまで座席で休むことができる。

 

皆、できることなら無関係でいたいから、障害者が幸せであってほしいのだ。

差別だって、実際に自分とは縁のないネットの中の出来事ならいくらでも良心的なことが言えるのだ。

 

いつぞやの台風で、ホームレスが避難所から受け入れを拒否された件。

あれも、避難所を叩いている人間は、おそらくその避難所とは無関係な屋根のある場所から、そしてSNSという媒体を通して呟いていた。

だって自分はその避難所に避難しているわけじゃないから。

もしこれが仮に同じ避難所にいたら、同じことが言えただろうか。

自分の隣でホームレスが寝ることになったら、嫌な顔ひとつせずに夜を過ごせただろうか。

 

無関係な場所からなら、いくらでも独善性を語ることができる。

それを批難するつもりもないし、むしろ人間らしいとすら思う。人間のもつ、防衛本能だから。

 

話が逸れたが、障害者は殺されてもいい対象ではない。

ただ私は、障害を持って生きていくのは辛すぎる。生まれてきたくもなかった。

発達障害に限って言えば、原因は未だはっきりとはしていないが、できれば遺伝子検査などで障害児を産む可能性のある人は、出産を諦めてほしいとすら思ってる。その遺伝子検査も無料で行えるようになってほしいし、義務付けてほしい。

障害をもって生まれた子供が幸せになるか不幸せになるか、親には見通せるものではないが、私は可能性があったのなら産まないでほしかった。ほんとうに、切実にそう思っている障害者もいるということを知ってもらいたい。

 

死だけが救い

もはやそれしかない。
福祉だなんだに希望を抱いても、恩恵なんて得られたか?
結局は他人で、この八方塞がりの小さな地獄には誰も介入できないんだ。
閉塞的なコミュニティ、血縁の因果、誰が、何が悪かったかの後日談論争。
事が起こり大衆の知るところとなってから、後付けの理想論。
渦中のうちは、誰も解決できないんだよ。
だからもう、誰かに助けを求めるこては無意味なんだって諦めようよ。

死だけが唯一の救済だ。
親の育て方を批難するやつら、だったら責任とって一家心中で方をつけてやるよ。
そこまで追い詰められた箱の中の地獄に、手を差し伸べ打開できるか?できないだろ。
じゃあもう、死をもって箱の中の地獄を終わらせてください。
それが最良なんです。
もう遠隔操作で届く定型文なんてたくさんだ。
遠い、幸せな場所からの言葉なんて、なんの意味もない。

元事務次官のお父さんと発達障害を患った息子

熊澤被告への判決が決定し、人々はまたこの事件について意見する機会を得た。

あらゆる人達が、熊澤被告に対する批難、刑への賛否、息子の生い立ち、発達障害であったことを、それぞれの視点で意見しているのをTwitterで目にした。

熊澤被告擁護派と、同じ発達障害を患う人達の判決への不満。批判。

どうしてどちらかを断罪しなければいけないのだろう。
どうしてどちらかが悪いと白黒つけたがるのだろう。

私はどちらの気持ちもなんとなくだがわかる。
それはネットやニュースから得た、断片的で表面的な二人の関係からでしかない。
だがそれでも、これはお互いに不幸であり、私の頭ではどちらも救われる方法を見いだせない。

それが、どちらかを悪として決めようと必死にそれぞれの過去を晒す人達。
きっと、どちらにも罪はなかっただろう。
殺してしまったことは、法的には罪である。
しかし、暴言を吐き、近隣小学校の運動会がうるさいだけで「殺す」などと騒ぎ立てる人間と、同じ屋根の下で暮らす恐怖も、自らの意思とは無関係に障害に苦しみ行き場を無くした息子。
想像し難い辛さは、どちらにもあったのではないか。

私はこの親子、どちらの立場にも属している。程度は違えど、発達障害の子供を持つ親、そして自らも発達障害を患っている。
だからどちらの気持ちも否定し難いのだ。

報道はあまり見ないようにしているが、それでもTwitterにはどちらかを批難する意見が流れてくる。
目にする度に悲しくなる。
あなた達が責めないでほしい。
あなた達が彼らのような人間を救えるのか。
手を差し伸べて、もし同じような立場の親子が近くにいたら自ら行動し、救いに繋げることができるのか。

できないだろう。
してはくれないだろう。

殺人に至る前に、警察なりに相談すればよかったのに。
いい歳して自分で治療を受けるなりすればよかったのに。

じゃあ実際に、あなた方が当事者なら、それができるの?
助けを求めることができないくらいに、心身的に疲弊した状態で、その判断が、選択が、できるの?
助けを求めた先で、無碍にされたら?
どん底の苦しみを何十年続けてきた中で、その気力と正解を導きだせる思考を持ってると断言できるの?

何が言いたいかって
「何もできねぇ外野は黙ってろ!」

どうせおまえらが助けてくれないことなんて、こっちはもう痛いほどわかってんだよ。
Twitterにあれこれ書き込むことなんて、なんの労力もなしにできるだろうよ。でも実際に動くことなんてしないだろ?
おまえらは無関係な地獄を見て、それらしいことを書き込むことで自分が優位に立ってると思いたいんだろ?
小さくて閉鎖された家庭という地獄で、八方塞がりの状態にあった彼らは、おまえらにはファンタジーなんだろうよ。
発達障害の子供を育てたことあるのか?
発達障害の苦しみを知ってるのか?
無限地獄の中で苦しみ続けた彼らを、どちらが悪いかなんて判断できるやつはいない。

たまたま父親が殺人を犯したことで法が判決を下しただけだ。

模範解答のない子育て、親子関係、完全な治療方法もない発達障害。それらを素人が断罪するな。

誰かに矢を向けなければ気が済まないんだろうけど。そのために標的に勝手なレッテルを個人の判断で貼り付けてんじゃねぇよ。
と、思いました。

何者でもない自分が許せない話

何者でもない人間の方が、世の中圧倒的に多い。
なのに私は常に「何者か」になりたかった。

発達障害ゆえに、ふつうの人があたりまえにこなすことすらできない自分にも、居場所が欲しかった。差別されることのない安心できる居場所が欲しかった。
差別されない、能力がふつうより劣っていても異物として疎外感に苛まれない場所で、役割がほしかった。認められたかった。「何か」を必要として欲しかった。

けど私には何もなかった。
結局、何も持たない私はいつまで経っても社会の中で異物だった。
集団が大きければ大きいほど、異物は目立つ。
異物なりに周りに迷惑をかけぬよう、必死に健常者のふりをしてきた。それでも「ふり」なので、健常者のようにはいかない。健常者に擬態した変わり者にほかならない。

選ばれたかった。他にはない「何か」を認められ、異物が異端として評価されたかった。

だが結局いろんな自分にもできることに手を出したが、どれも中途半端で、人並み程度かそれより少しできる程度だった。

才能もセンスも、「ふつう」に劣る私にはそれすらもなかった。
誰にもできるけど、誰もやりたがらないこと仕事を最低賃金でこなし、それでもクリエイティブな面で「何者か」になりたいと試行錯誤し挑んできたが、そこそこ人よりできる程度の作品を生み出すことしかできず、認めてもらうことはほとんどなかった。

生きていてもいいスキルがほしかった。
「あたりまえ」も「異彩」も私は持ち合わせていなかった。
無価値だ。
価値を見いだせない。
私が話す言葉も考えも、無価値な者から生み出されるものは、誰の共感も得られず意味を持たず流れていく。

必要とされる価値のない自分。
社会から弾かれた自分。
認められることで得られるはずの居場所も所属も何も無く、ただ価値のない駄作を生み出し、誰にも認めてもらえない。

こんな無生産な人間を、迎え入れる居場所なんてない。
どこにいても異物だと感じて、この世に生きることを恥ずかしくも思う。
存在のない人間は生きる場所すらない。

差別とどう生きていくか

東野圭吾「手紙」を読了した。

内容は、優秀な弟を大学へ進学させるために強盗殺人を犯した兄。

罪を犯したのは兄であり弟にはなんの落ち度もないのだが、世間は彼を「殺人犯の弟」とラベリングする。そのことで弟はいろいろな物を失い、苦しい人生を送ることになる。

弟がどんなに努力しようと、兄の罪が呪いのように彼を追ってくる。

 

ここで私が一番着目したのは「差別」だ。

殺人犯ではない弟にはなんの落ち度もない。しかし、世間は彼を危険な人間の血が流れているレッテルを貼ることで、自分自身の安全を守る。

これを「差別」と言えばそうだろう。

罪のない弟自身を無差別に受け入れることで、受け入れる側は心にある警戒心を押さえ込む必要がある。彼を差別しないことは、周りの人間のストレスをどうしても誘発してしまう。これでも「差別」はいけないことだと、真っ向から否定することはできるのか。

よく差別と区別は違うというが、私はどちらも同じことだと思う。

棲み分けることで自分を守る人間の本能、処世術としての当然の反応が「差別」ではないか。

 

私の大好きなアニメ「コードギアス反逆のルルーシュ」の一節「人間は生まれた時から差別されている」

私はよく「出生ガチャ」と呼んでいるのだが、人は生まれた時から親の地位、経済力、遺伝による個体差・・・など。その差別があるからこそ、人は切磋琢磨しより成長できるのだと言う。

差別が人間が成長するための原動力になるかどうかはわからない。むしろ生まれの不遇に幼い頃から悲観し生きる人もいるだろう。

等しく差別のない世界など、絶対にありえないのだ。

差別なく、弱者も強者も罪の有無も性別も年齢も生まれの境遇も民族や宗教も、なんの隔たりもない世界が存在できたとしたら、恐ろしいことではないだろうか。

慈悲深くどんな人間にも同じような優しさを施すことができるだろうか。それは、自分が持つ不快さを押し殺す行為にもなるのではないか。

では逆に差別なく無慈悲に他人を扱うことになればどうだろう。

 

差別のない世界は、人々が持つあらゆる他人に対して抱く感情を、極限までフラットにする必要があるのだ。いわば、差別のない世界とは、更地なのだ。

人の心を更地にし、他人に対し無関心でいることを徹底しなければ成し遂げられないと思う。

 

差別は緩和することはあれどなくなることはない。

差別を受ける人間に対し、同情することはできるが、自らの身を呈して手を差し伸べることはものすごく難しい。仮に手を差し伸べたことで、差し伸べた人間の周りの人がなんらかの差別なり誹謗中傷を受けるかもしれない。

だから皆、同情という盾の内側で傍観する。安全な場所から意見する。差別をした罪悪感を同情という免罪符にする。

 

では差別的な被害に遭った場合、それに対し自分に落ち度のない「手紙」の弟のような理不尽な差別に対しどう生きることが正解なのか。

模範解答などないのだ。

肉を切って骨を断つ。

そのような選択肢の中からどれかを選ぶほかないのだ。なぜなら社会、世間の目を変えることはできないから。個人が差別社会のなかで何を捨て、どれを選び、どう生きていくかを模索するしかない。

そういった感想を抱いた作品だった。

 

差別する社会を恨んでいる場合ではない。

そんな社会の中で、風穴や僅かな光を見つけることのほうがよっぽど合理的だと思ったのだ。

理不尽な不幸に対して苦労を強いられることは悔しい。

なぜ私がこんな・・・俺のせいではないのに・・・。

誰かのせいで不本意な生活を強いられることは、出生から始まっているのだ。

望まれない親の元、望まない人生に突然、自分の意思が一切介入することなくスタートテープが切られる。

走ることに優れた足や靴が最初から与えられてテープを切る者。体力が他の人間よりもある者。給水ポイントがなぜかやたら設けられている者。

人生マラソンに強引に参加させられた私たちに、ランダムにスキルが振り分けられた状態。それがこの社会であり、出生自体がすでに理不尽極まりない。

 

差別を真っ向から全否定する人、今差別に苦しんでいる人にぜひ読んで欲しい作品。

手紙 (文春文庫)

 

ゆらぎ荘の幽奈さんとダヴィンチコード

Twitterで話題になってた例の幽奈さんの仕掛け。

感服した。

としか言えなかった。

togetter.com

 

昨今のフェミニストによる規制をあざ笑うかのような仕掛け。むしろ少し前にフェミが、ゆらぎ荘に対して少年誌でやっていい作品じゃないだのと、火柱をあげたことへのアンサーに思えた。

 

今回のカラー絵の裏に隠されたタピオカ。

もちろんこれ、タピオカが裏に描かれているだけなので少年誌において、何も違反していないのだ。

何も違反していない。

けれど、うっかりカラー絵を光に透かしてしまったら、乳首が描かれているように見えてしまう。いやでもこれ乳首じゃなくてタピオカ。

作者はカラー絵の裏にタピオカを描いただけ。

 

なにも!規制に!引っかからない!!!

 

どうだ、フェミども。これが少年誌内におけるエロの楽しみ方だ!!!

ミウラ先生が高笑いしているのが聞こえる(私には)

 

そもそもね、少年誌でエロを表現しちゃいけないだとか言ってもさ、読者は大喜びしてるわけよ。大喜びしてる反応はだいたいが大人だろうけど。だって、子供の反応はTwitterじゃほとんど見られないし。

でもさ、道端に落ちているエロ本、父親が持っているプレイボーイをこっそり読んだりとか、子供って、大人がどんなに規制してもエロを求めようとするわけよ。

その「こっそり」こそ、背徳感と欲望が綯交ぜになり更なる興奮を生む。いわば規制は青少年に対するエロのスパイスではないのか。

 

これがおおっぴらに「はい青少年の皆さん、幽奈さんの乳首でーす」ってどーんと出されたら、そりゃ興奮はするだろうけど、仕掛けを発見した時の興奮に比べたら格段に低いと思う。

 

父親に「どうだ、このグラビア」って堂々とプレイボーイを見せられても、興奮はするけど「お、おう・・・」とちょっとたじろいでしまうだろう。

 

大人の目を掻い潜り、または規制を掻い潜って表現した「エロ」こそ、青少年だけが得られる嗜みのようで、私は今回のことはとても趣があるなと感心した。

 

こういった規制内で暗躍したエロは、私が知る限りで言うと、

「クノイチノイチ」でのカワテブクロという種類のヒトデに攻撃されるシーン。

このヒトデ、名前だけ聞くとなんだかわからないだろうけど、男性器にそっくりなあのヒトデです。

「食激のソーマ」の作画担当、元エロ漫画家が描くアワビや、「ゴールデンカムイ」における白熊の直腸断面図(エロ漫画の挿入シーンでよく見るアレ)など、一切R18の規制には引っかかっていないが、エロい!(ゴールデンカムイはエロと感じるかどうかはさておき)

 

もしもこの世でウニが規制されたとしよう。

プリンに醤油かけたらウニの味がする!だがウニではない!でもウニっぽい!これはプリンと醤油だ!決してウニではない!規制に引っかかってはいない!だってプリンと醤油だから!でもウニ・・・。

みたいなもんだと思う。

ウニが規制されたら、ウニじゃない、でもウニっぽいものを人は求めるはず。

青少年健全育成なんちゃらってのは、青少年が健全にこっそりと背徳感とワクワク感を持ちながらエロに手を出す機会、だと私は思っている。