ヘルプマークは効果的なのか

先日、市役所に用事があったので、ついでにヘルプマークをもらってくればよかったと少し後悔した。

だが、ヘルプマーク、あれはほんとうに効果的なものなのだろうか。

私は年に1、2回程度、過呼吸になる事がある。そのうち外出先では一度だけ過呼吸になり、その場にへたりこんでしまったことがある。原因はおそらく暑さと、目的地への道のりがわからなくなってしまったことによるパニックだろう。へたりこんだ場所も悪かったが、最中、一台だけ車が通り過ぎた。うずくまる私を見かけたのは、その一台の車の運転手、もしくは助手席に誰かが乗っていればその人だけだった。それでも人気の無い場所でうずくまる私を見かけたであろう車は、何のアクションもなく通り過ぎていった。

これで実際ヘルプマークをつけていたら、何かが変わっていただろうか。彼らか彼女らは、車から降り、私に声をかけていただろうか。

たぶんヘルプマークの存在にすら気が付かず、同じように通り過ぎただけだったと思える。

 

これが人通りの多い場所であれば、一人くらいは声をかけて何らかの援助をしてくれたのかもしれない。

これはもう確率の問題だろう。

分母が大きければ大きいほど、手を差し伸べてくれる可能性のある人間の数は増える。そしてそのうち、何人がヘルプマークの存在を認知し、適切な対応ができるのか。

 

ヘルプマークの認知については、Twitterでも啓蒙活動が広まってはいる。この一年くらいで認知度はだいぶ広まったのではないだろうか。

かく言う私も、Twitterでヘルプマークの存在を知った一人である。

実際にヘルプマークのおかげで助けてもらえたという話も目にした。

だがヘルプマークの認知度が広まっても、そもそも外出先で体調が悪くなり助けを求めている人に、声をかけることのできる人間はどれくらいいるのかというのが問題だ。ヘルプマークの存在を知っていたからといって、その人が当事者に出くわしても声をかけることすらしないかもしれない。

 

そう考えると、ヘルプマークをつける意味があるのかと思ってしまう。

世の中はそれほどまでに慈愛に満ちているとは、私はどうしても思うことができない。

しかし私はそれを責めることもできない。

自分で手一杯ということは、常々私自身が感じているからだ。他人を助ける余裕のない私は、他人に助けてもらえる価値もないと思っている。助けてもらえたとして、それを返すだけの「何か」を持ち合わせていない。

 

だからといって、ヘルプマークの存在を否定しているわけでもなく、むしろこういったツールはどんどん広まっていくべきだと思う。

ただ、そうしたツールを利用しているにも関わらず、無碍にされる可能性を考えると、その時に味わうであろう悲壮感や、絶望に似た感情に心を痛める自分をも想像できてしまう。

そっちの方が恐ろしいのだ。こちらが理解を得るための準備を整えていても、素通りされてしまった時、それはせっかく準備をして心待ちにしていたパーティーに誰も来てくれなかった時のような悲しみに近い気がする。某野球漫画のあの場面を思い出してしまう。

そしてどこかで「ああやっぱりな」と、腑に落ちる振りをすることで、自分で自分を慰めているのも想像に容易い。

 

私たちがヘルプマーク等のツールを利用することと、社会の理解が平等でなければ、せっかくの素晴らしいアイディアも悲しい結末を見る羽目になってしまうというのは、とても残念なことだと思う。

他人への理解を強いる行為は傲慢だ。

そう思いつつも、どこかで理解を待ち望んでいる自分は、ずるい人間なのかもしれない。