泥舟で海を渡る
数年ぶりにメンタルが大暴落した。
あまりに気が狂ってしまい、フォロワー2000人のTwitterアカウントを削除してしまった。数日後に高橋一生の熱愛報道での私服があまりにダサいことをどうしても言及したく、アカウントは復活させたのだが、とにかく2000人もフォロワーがいるのに反応が少ないことが許せなかった。
2000人もフォロワーがいるのに、反応の薄いアカウントなんかいらねぇ!と削除ボタンを押してしまった。
自分のつまらなさ、誰からも興味を持たれていないのでは?という怖さ。
10何年と居場所がインターネットの中だった私には、可視化された他人からの評価だけが頼りだった。
BBSに始まり、そこでコテハン(固定のハンドルネーム)でちょっとばかし知名度が上がった事で快感を覚えた。
その後二次創作小説サイトを作り、そこで有難い感想をたくさん頂き、自分にも人並みに出来ることがあったんだと生まれて初めて思えた。
なんの特技も持たない私の唯一のステータスになった。
インターネットの中でどれだけ他人の目を引くかだけに、どんどん真剣になっていった。
現実での評価には社交辞令というものが含まれていて、私にはそれが社交辞令なのかそうではないのかの判断が難しい。
なので、うっかり社交辞令に踊らされて恥をかかないよう、全ての評価は社交辞令として捉えるようになった。
二次創作時代、わざわざサイトに足を運びコメント欄を開いてコメントを残す事の手間を知っていた私には、その労力を割いてまで感想を送って下さった事に、ものすごい価値のあるものを感じていた。
面と向かってお世辞を言う事なんて簡単だ。
なのに、顔も名前も知らない私にわざわざ感想をくれた。これを一生の糧にしていこうとさえ思ったのだ。
しかし二次創作をやめ、Twitterに入り浸るようになると、140文字以内でどれたけ大喜利をするかが私の評価の対象となった。
露出の多いコスプレ写真もアップした。
簡単にフォロワーが増え、いいねの数も増えた。
ものすごくたまに、文章だけのツイートが何千と伸びた。
通知が止まらない、快感だった。
そんな「正当な評価を得られる場所」と思い込んでいるTwitterで、評価を失うことは私にとって私は存在しない人間だという烙印を押されてしまった気になった。
実際、いいねの数がさほど減った訳ではないのだが、いいねがひとつもないツイートを消し始めた。
「こんな、おもしろくもないものを世に残しておきたくない」
おもしろくなければ、私は誰にも相手にはしてもらえない。そう思い込んでしまった。
私は双極性障害があり、その数日前までは異常なくらい元気だった。自分でもこれはまずい、近いうちに欝の波がくる、と身構えていた。
そして来てしまったのだ。メンタルの大暴落が。大きなうねりをあげて、脆く崩れやすく頼りない泥舟を大きく揺らした。
不安と疑心が泥舟を容赦なく浸水させていった。私は必死で逃げるようにTwitterのアカウントを消し、とにかく嵐が過ぎるのを待った。