当事者だが専門知識を持たない私がADHDについて語ってみる

突然だが私はADHDだ。

発達障害という最近よく耳にする障害のひとつであるADHDに私はカテゴライズされている。詳しい障害の内容についてはググればいくらでもでてくるので敢えてここでは書かない。では何を書こうとしているかというと、私個人の症状についてとそれに対してこれまで生きてきた中での地獄だ。

大袈裟かもしれないが、私の人生は地獄と一言で言うに足りる。私は私の意志とは関係なく地獄に生まれ落ち、なんの対策も教えられぬまま30年以上を生きてきた。「あたりまえに出来る事」があたりまえに出来ない悔しさと疑問。それについて言及されるが、私にも理由などわかるはずもない。じわじわと私の中に他人との境界が生まれ、心の孤独を感じるようになった。

だがインターネットの発達で私は同じ苦悩を持つ人間がこの世には存在すると知った。それでも数は圧倒的に少ない。私達はマイノリティーである。世間の常識は多数決で決まる。政治もそうだ。学級会でもそうだ。あらゆる物事は同じ意見を持つ者が多い方が優勢となる。人間の感覚を決めるもの多数決だ。

例えばおにぎりの海苔はしっとりしていた方がいいか、それとも乾いてパリパリとした食感の方がいいかという多数決でも、それを好む者が多い方の意見が通る。

私の感覚は圧倒的に少数派である。それは人たらしめる感情や感覚において、少数派の人間。私は自分のことを人間の亜種だと思っている。家族という集団を苦手とし、子を持つ事に恐れを抱き、死を恐れるどころか自ら死を願う死生観までもが狂っている。

これらがADHD由縁なのかはわからない。私は専門家ではないから。ただ、基本的信頼感が欠けているのは、幼い頃から出来ない事への「なぜ?」をぶつけられ、叱咤されたことにより、他人は自分を傷つける敵だと認識してしまったことによるものだと思っている。

他人が出来て自分が出来ない事への他人からの叱責よりも、出来ない自分への不甲斐なさは私の自己肯定感をどんどん削り取っていった。私は最低限の事も満足にできない出来損ないであると。

 

明らかに社会に適合していない。それでも数年前までは必死に食らいついていた。ADHDには一番向いていないと言われた、マルチタスクを要する仕事もなんとか自分がやりやすいやり方を考え、工夫し、ある程度をこなせるようにはなった。

しかしここ数年、そうして力量以上の力を発揮することに限界を覚えた。体力的なものもあるのかもしれない。健常者が10の力でこなせるものに、私は100のエネルギーを消耗する。この理不尽さにあほらしくなった。なぜ私だけがこんな苦労を強いられてまで生きねばならないのか。自ら望んだ苦労ではない。生きていく為の苦労。その生きるということも私が自ら選択したわけではない。こんなことなら生まれてこなければよかったと切実に思う。なので私は誕生日が嫌いになった。自分がこの世に生を受けてしまった諸悪の根源だ。地獄を強いられた忌むべき日なのだ。

私は生涯この世を憎んで生きていくだろう。持って生まれた者と持たざる者との隔たりは決して埋まることは無い。福祉がどんなに発達し、世間に発達障害への理解が生まれ広まっても、その差は永遠に埋まることないのだ。

 

発達障害を生かして生きている人もいる。

セカイノオワリのボーカルやさかなクン等は、突出した感性で世間に多くのものを生み出し、それで飯を食えている。

だがそれはほんの一部であり、ほとんどの発達障害の人間が仕事に出来るほどの才能があるわけではない。語弊がある言い方にはなるが、金にならない才能は生きていく上でほぼ意味を持たないと思っている。

発達障害の特性のひとつに感覚過敏がある。症状は人それぞれ程度はあるが、過敏故に感性が優れている人間もいる。

その感度が良すぎるアンテナは諸刃の剣である。自らの意志とは関係なく、拾う必要のないものまで受信してしまい、結果心に傷を負ってしまうことだってある。芸術家向きだと言えば聞こえはいいが、芸術で生計を立てられる者など限られている。大衆を魅了できる芸術は難しい。

 

こうして障害を理由に人生を悲観するなど馬鹿げているのかもしれない。悲劇のヒロインとも思われるかもしれない。だがこれが私の現実であり、今のところ救いはない。これからもあるようには思えない。自分を褒めるといった自己肯定感の助長も、私にはなんの意味も持たなかった。些細なことを褒めてみたところで、そんなの当たり前だろうと心の中の私が打ち消してくる。

障害を理由に他人に出来ないことへの理解を求めることもやめた。そこまでして理解されず、一蹴され、いちいち傷つくことが煩わしい。それをリカバリーする体力も精神力もとうに果てた。

ままならないことばかりの世の中で、私は指針を失い1日1日を嘆きながら消化していくしかない、不毛な人生を送るのだ。