たった一本のサイリウム
朝起きられなくて仕事休んじまった。
不安で布団から出られない。外が怖い。起きたら山積みになった不可能タスクに怯えてでも何も解決はしなくて途方に暮れて不安だけが積み重ねられていく。
でもよくここまでひとりで耐え抜いてきたなという自負もある。乗り切ったというか、逃げ切ったに近いんだろうけど、こんな雑で無能な人間が39年近くも生き延びて来られたのはむしろすごいんじゃないか。
もし同じスペックで同じ環境の人間だったらもっと早くにリタイアしてたかもしれない。
いやそれはどうやっても検証できないんだけど。だからこそそうだと思い込むこともできる。
薬切れてきたらまた不安に襲われてどんどん外が暗くなってきてまた明日に近づいてる。怖い明日に近づいていく。何も達成しない、解決しないまま恐怖を迎える。
そして孤独の辛さを思い出した。
何年かぶりに寂しいという感情を思い出した。よう久しぶり。こんな姿だったんだな。でもひとりで戦わなきゃいけない私には邪魔な感情だ。
誰かに助けてと手を伸ばすこともできない私は、一生孤独と手を繋いで生きていかなければならないのに、そこに寂しさが参入してきたら奮い立たせた闘志が鎮火してしまう。
ひとりで生きていく覚悟に寂しさはいらない。だってさみしくなったって、傍には誰もいないんだから。遠くで細い糸で繋がってる人はいても、その中に私の手を握り励ましてくれる人は誰もいない。私の手を握ってくれるのは孤独だけだ。おまえはひとりでも大丈夫だと抱きしめてくれるのは孤独だけだ。
そして孤独は私が何かひとつでも耐え抜いた時に「ひとりでよくやった」と褒めてくれるだろう。
そうだ、私を励まし抱きしめるのは私なのだ。
他人に心をあけすけにすることに怯える私には私しかいない。私の不安は他人にとっては重すぎる。それを欠片でも相手に手渡してしまえば、相手は困惑するし最悪離れていってしまうだろう。
適度な距離で適度な情報のみを与え、不安を笑いとして提供するぐらいが私と他者とのコミュニケーションとしては最適なのだろう。
これまで何度もひとりで戦ってきたじゃないか。
予測が苦手な私でもあとどれくらいで完全に詰むかはなんとなくわかる。
だからそれまでめちゃくちゃな戦法でも乗り切れ。
人は絶対いつか死ぬ。生まれた時点で死はセットなのだ。確定している未来なのだ。
だからその日まで「めっちゃ頑張ったじゃん」って思えるくらいむちゃくちゃに剣を振るえ。それが正しい生き方でなくとも。
ちなみに借金の件は昨日確認したら、ふたつ完済してて、今年の7月には月々2万円の支払いが終わる。
月末引き落としだからあと3回。
少し未来にサイリウムくらいの光が見えた。大閃光には至らないが。
てかどこからも借入できなくなってから節約せざるを得ない生活してたけど、けっこう無駄なものを買ってたなと実感した。
細かく浪費してたんだな。
差し替えせ
借金の総額を計算し直したら140万あった。
すでに最後の切り札であるクレカも1ヶ月近く滞納している。毎日熱心にかかってくる電話。着信音がなりやむまで画面を静観する私。
頼みの綱であるアイ〇ルに増枠の申し込みをしたが、期待には添えられなかったらしい。
さて、ここまで退路を断たれて失望しているが、3割くらいは「この状況で切り抜けられたらおもしろいのでは?」などと、頓珍漢な感情も芽生えている。
野球でいうところの逆転ホームラン、競馬でいうところの差し返し。
どこかで湧き上がるような盛り上がりを演出できる自分を思い浮かべている。
増枠の申し込みを断られたので巻き返す手段は今のところ薄いのだが、ギリギリの勝算を期待しているのは、今月10日(土曜日なのでおそらく9日)に手当が入る予定なのだ。これを合わせると先月のクレカは返せるかもしれない。
まだ怖くて計算しはしていないのだけど。
もうこれはいっそエンタメとして楽しむしかない。
泣こうが笑おうが、借金は減らない。
だったらこれを、崖っぷちの人間が借りて返すを繰り返しいくらかでも返済していけるかどうなのエンタメとして、私自身が楽しんだ方が得なのではないか。
やばくなるほどに「やってやろうじゃん」と、アドレナリンが出るのはけっこうだが、それを借金をするまえに放出してほしかったよ私の脳みそよ。
間引かれるべき生き物
オタクよりの同僚に同人誌の話をした時のことだ。
「同人誌は基本的に利益を出してはいけない。だから印刷代だけをちょうだいするという体で価格設定をしているから、利益はほとんどない」
という話をしたらすごく驚かれた。
もちろん大手や壁サーなどの一部(統計だと4割だったかな)は黒字だ。
だが利益が得られないのに本を出すということが衝撃だったようだ。
その反応を得て冷静に考えてみるとたしかにそうだ。
お金では得られないものを得るための趣味であり活動だ。それにけっこうな時間と労力を費やする。回収できるかどうか、蓋を空けてみないとわからない印刷代、数万円を先払いする。慣れてくると部数を把握できるが、先に数万円の印刷代を支払うことに変わりはない。
それは私が思うに、生活基盤が整っていて生活に支障のないラインをきちんと把握できる自制心を持った者が携わることを許されている趣味ではないだろうか。
これはもう今ここで私が書かなくても、あたりまえのことなのだ。何を今さら…という思いで読んだだろう。
どんな趣味でもそうだ。
音楽だろうが登山だろうが、生活費を確保した上で趣味にかかる費用を捻出するのが一般的だ。
趣味とは、自分の収入に見合った範囲で楽しむ。
なんでそれを義務教育で教えてくれなかったんだ。教えられずとも身につくものなのか。
このへんを考え、身の丈に合わない出費を留められるかどうかが、債務者と非債務者の違いなのだろう。
むしろ非債務者からすれば「なんでそんなこともわかんねーんだよ」と思うだろうが、いよいよやばいぞ、というラインを越えるまで気づかないのだ。
10年以上前に二次創作をしていた時、元配偶者(非オタ)に「そんなにネットを見てるならレシピのひとつでも調べろよ」と言われたことがある。
今考えるともっともなご意見だ。
そう言われるほど、私は料理が苦手でそれゆえにレパートリーも少ない。主婦としての責務を半分も果たせていない状態であるにも関わらず、金にもならない二次創作に没頭していたのだ。
その時はまだネット上に作品をアップするだけだったので費用はゼロ円であったが、この場合はお金の問題ではない。
きちんとした生活基盤の構築を疎かにしてまで趣味にのめり込んでいたことへの叱咤だ。
そう考えると、お金がかかろうがかかるまいが、趣味を嗜むことを許されるのは、生活に支障が出るラインを見極められる、そしてそのラインを越える前に踏みとどまることのできる自制心を持っている人。に限られるのではないか。
今こうして金にも生きる上でも、なんの生産性もないブログを書いている時間にシンクに溜まった洗い物を済ませるべきなのだ。
今後私はマーレに住むエルディア人のように自分の非を胸に刻み、名誉社会不適合者の称号を得られるよう娯楽を節制すべきだ。
私のような社会的に底辺の人間は、まっとうな人間に批難される。聞いた話だがこれは人間が原始時代から持つ本能らしい。
原始時代の人間は、劣等な人間を殺し間引きして生き延びてきたらしい。
優秀な人間だけを後世に残し、また狩猟や農耕などで使えない人間は効率を下げると選別したおかげで今の我々が存在しているらしいのだ。
この話を聞いてとても合理的だと思った。倫理的には相応しくないが、下等な人間が群れにいるおかげで群れの生存率が下がることを考えると正しい判断かもしれない。
こういった本能が、100万年経っても根付いているそうだ。
だからネットでもなんでも、社会にそぐわない人間を叩く。叩いて叩いて追い詰める。すると、直接手を加えなくても会社なり界隈なり世界から消える。
言葉を得た原始人たちは、そうして群れの癌になる人物の噂を広め、満場一致で「こいつは殺しても問題ないやつだ」と間引きを可決させた。そうすることによって、手を下した人物は凶悪な人殺しではなく、群れの生産性を高めたヒーローのような扱いを受ける。手を下した人にも罪悪感は生まれないだろう。
この人類間引き制度が現代に適しているのかどうかわからないが、生活保護など福祉の恩恵にあやかっている人を憎らしく思うのは人間の本能なのだ。
そう考えると、社会福祉制度というのは本能に抗った制度なのかもしれない。
会社にいる「使えないやつ」を辞めさせたい。その気持ちは原始時代から紡がれてきた人間の本能なのだ。
創作に携わる人やオタクを含むサブカル人は「生産性がなくとも好きなことならいくつになろうと、親になろうとやっていいんだよ」なんて甘言を口にする。
しかしそれは、前途のように生活基盤を安定している者に限る。
創作は生活に余裕がある者だけの嗜みかもしれない
金にならない、むしろ金が出ていくだけの創作活動なんてしている場合ではない身であるなら、それはやめるべきなのかなと。
生活にゆとりがあって、その範囲内でやるべきよね。本来は。てか、だいたいの人がそうなんだよ、きっと。私がおかしいのはもっともだ。
程度をわきまえろと言いたい。
おまえの生活レベルでやるべきことではない。やるならスズリのようなコスト0円でできるものだけにしておくべきなのだ。
「でもどうしても装丁や素材にこだわって形にしたかった」
なんてただの言い訳だ。
そうやって都合のいい理由でごまかしてきたから、今そうとう痛い目にあってるんだ。
今までなら、激ヤバのピンチになるとアドレナリンだかドーパミンがでるのか、躁状態の無敵モードで乗り越えてきてしまった。
つまりなんとかなってしまっていた。
それが今はそのマリオがスターを獲得した時のBダッシュで迫り来る敵をぶっ飛ばせるモードにならない。
これはもう完全に万策尽きたのだろうか。
いくら頭を捻っても金の目処はつかないし、銀行からの電話は毎日くる。
いつもなら「考えることをやめたら終わる」と感じて、ない頭を捻りに捻り、なんやかんやでここまで辿り着いてしまった。
その成功体験が私から危機感を奪ったのかもしれない。
ついに「なんとかならない」ところに来てしまったのだ。
気づいたらもう残機はゼロだ。目の前にはクッパがいる。くわえてコントローラーのボタンが機能しない。
そんな状態だ。
運良く今のステージまで来たはいいが、これまでのように起死回生の策を絞りだそうとも、出がらしすらでてこない。
人生、投了したい。
潔く「負けました」と頭を下げるので、早く盤上から降ろしてほしい。
感想戦なんかいらない。
そう言えば、人生ゲームって早く上がった方がプラスになるのに、どうしてリアルの人生は長生きにこだわるんだろうね。不思議。
落ち込んでる時に冷たいものを摂るな
とりあえず前回のブログを更新した日に家賃を払った。
残高¥8000ちょいになったので、今日は通院もあるし(診察代はカードで支払えない)¥8000円おろしてきた。
さて、昨日からアタックを開始した某銀行への返済は手持ちの金額では無理だし、10日に手当が支給されるまではまとまった金が入る予定はない。
というか、何に金を使ってんだおまえって話だけど、昨年末にスウェットとショップカードを作ったのだ。
今まではスズリで元手0円で自分でデザインした服を販売していたが、友達のお店に実物を置いてもらえることになったので作った。
生地代、印刷代、ショップカードの印刷代あわせてだいたい¥55000かかった。
馬鹿じゃねーの。
ショップカードなんて100枚で1万円もした。そんなタダで配るものに1万円もかけてリターンは望めるのか?
スウェットが1着売れたとして利益はあるのか。
ねぇよ。
ぶっちゃけない。いくら売れようが赤字。
黒字にするためにはもっと枚数を刷って1枚あたりの単価を下げる、もしくは売価を上げるしかない。
スウェットは税込¥5500で販売している。
素人デザインのスウェットを手に取ってもらえるとしたら妥当な値段だと思う。
これを友人の店舗への送料も含めて黒字になる売価にしたら¥6500は最低でもつけなきゃならない。
売れるか?
いや、すごい良いデザインなら惜しまないかもしれない。
ちなみにスウェットの生地はそこそこいい。10onzでしっかりしてるし、裏起毛ではないので春と秋にも着られる。
もっと着実に金が手に入るものに時間を費やすべきでは?副業なら家でできるものも、このご時世だからたくさんあるし、実際に昔、アフィリエイト記事で小銭を稼いでいた時期もあった。
けど興味もない記事を書き続けるのに疲れた。
これが本業ならいざ知れず、仕事と家事の隙間に書きたくもない記事を惰性で書くことは大きなストレスだった。
そうやって自分に甘いから借金がかさむし返済も遅れるのだ。
ここまで読んだ人は誰ひとりとしてそう思うだろう。
「死ぬ気で働け」とか「てめぇのケツもてめぇで拭えないのか」とか「そんな状況で数万円も払って服とか本とか作ってんじゃねぇよ」とか。
思いつくだけで100個くらいは私に浴びせたい言葉が浮かぶ。
世間が私に対してどう思うかなどわかっている。人生の落伍者に対して世間は寛容ではない。落ちぶれれば自己責任、自業自得。ただ、そうやって批難することで何か得られるものはあるのか。手を差し伸べる気がないのなら、見えないものとして扱えばいい。
まっとうな人生から外れた棄民を批難するより「自分はこうじゃなくてよかった」って安心しながら毎日目を閉じる方が幸せになれるのではないか。
批判するくらいなら、今自分が立っている場所に幸福を抱け。眼下にも景色が広がっていることに安堵しろ。
きっとそこで食う飯はうまいだろうし、足元を眺めながら飲む酒は最高だろう。
そうやって自分より下の人間をコンテンツ化して生きろ。崖の上から石を蹴っても何も返ってこないぞ。
だったら黙って優越感に浸ってろ。
私は自己責任ってやつを背負いながら岩肌に爪を立てる。だから眼下は覗くだけにしとけ。崖の下の人間が生きようが死のうが、足元が脅かされることはない。そこまで死臭は届かないだろう。
遠くに見える国の貧困には嘆いても、目下の棄民には鼻をつまむ。
そうやって生きろ。
私もおまえらの知らない場所で生きて死ぬ。
印刷代を分割払い
今月に頒布予定の新刊の印刷代、¥46330を一気に支払えるはずもなく10回払いにした。
これはもちろんいわゆるTwitterで定期的に注意喚起としてまわってくるリボ払いというやつだ。
しかし私はこの「リボ払いだけは絶対するな」という言葉を鵜呑みにし、翌月の支払いを2ヶ月延ばしターンエンドした経験があるので、躊躇うことなくリボ払いした。
こちらの兵士は現在、携帯会社提携のクレカとデビットカードのみ。この主力のクレカを失効させるわけにはいかない。
しかし月が代わって本日3月1日であるが、前々回のブログで譲歩してもらった失効クレカの支払いがまだだ。
くわえて先月末に支払い予定の家賃もまだ振り込めていない。
あとカードローン2社もまだだ。
家賃¥38000
カードローン2社 約¥14000
車のローンと同社である失効クレカの支払い¥53000
私の現在の口座残高¥48000
どれを最優先させるべきか。
手当か入るのは10日。8万ちょい。
しかも主力カードの引き落としも同時にある。たしか今月分は18万円。
どう考えても回らない。いっそ算数もできない馬鹿になりたい。いやもうすでにどう計算しても整数にならない時点で算数以前の問題が発生している。
先日、私立高校の給付金おかわりの手紙がきたが、いつ振り込まれるかまでは記載されていなかった。これはあてにできないものとして考えなければならないが、めちゃくちゃあてにしたい。あてにしなければ詰む。
人生も生活も破綻気味の同人女は。
これまで色々なインターネットのコンテンツを利用し、自身の身に起きたことを書き綴ってきた。
だがどの媒体であっても、1から100までをすべてさらけ出したことはなかった。
それはおそらく私に付随する、あらゆるアビリティにおいて不利になると思っていた。
たとえば同人活動をしている自分にも、実生活があるわけだが、それらわ詳らかにすることで作品にバイアスがかかる。作品は好きだが作家の作品以外のツイートに辟易し、作品自体が苦手になる。「作家が地雷」というやつだ。
こういった経験を踏まえた上で、なにかしらの活動に影響を及ぼすような「自分の正体」をなるべく曝さないというのは、創作物だけにフォーカスしてもらいたいからだ。私自身の生活は、幻滅させる要素を多分に含んでいる。
しかし、活動しているジャンルを伏せたなら、何をあけすけに書き殴ろうが私の創作物に影響が出ることはない。
永らくこのブログには、そのとき感じた思いの丈をなりふりかわまずぶちまけてきた。
直近のブログでは借金を返せずクレジットカードがお亡くなりなったこと。
バツイチで息子がいること。
発達障害があること。
ではなぜそこに「同人女」を紐づけたのか。
以前、同人アカウントを消した際の決定打にもなった、おなじ二次創作をする者との生活の格差について、未だにモヤモヤするところが拭えないからだ。
私もそうだが、Twitterでわざわざ惨めな生活を晒そうとはしない。できるだけキラキラした部分を切り取って豊かさをアピールする。
いや、そもそもアピールではなく、そのキラキラした生活は本人にとっては惨めなものが写りこまないよう一生懸命切り抜いたものではなく、あたりまえなのかもしれない。
ろ過にろ過を重ねて抽出した一部分ではなく、単なる生活の一瞬にすぎないのかもしれない。
そう思うと余計に自分のみすぼらしさに心が痛む。
しかし、某掲示板を覗くと、そんなキラキラ同人女に打ちのめされ、悲壮感の掃き溜めのようなスレッドが目に入った。
いるじゃねぇか。
人生が崩壊しつつある中でも、同人活動だけが自分に残されたアイデンティティであるかのような人達が。
学歴もない、薄給もしくは無職、毒親による呪縛、などなど。明日も見えない、見たくもない人生という路線を走る列車に揺られながらも、同人活動だけは手放せずにいる人間が、少なくともここにはいる。
それをここで声高に語ったところでなにも変わらない。
キラキラした人生のレールに乗ることができた同人女にはなれないし、その人達にはなんの影響もないだろう。
しかしそんな人間がいるという事実を、私は遺したい。
記録であり遺書だ。辛い人生を送っている同人女の声明ではない。
ただ、私のようなケースもゼロではない。
それをいつまで続くかわからないが書き続けていこうと、なんとなく思った。